2003ヨーロッパ

2003年、ヨーロッパの旅

旅程:2003年9月5日〜25日

【Contiki】コンチキと読む。「Con」は「大陸」を意味するコンチネンタルのこと。「tiki」はマオリ族の言葉で「仲間」のことを指す。かつてニュージーランドの若者たちが、仲間を集め、あいのりワゴンでヨーロッパ大陸を旅したことが、コンチキツアーの起源であるらしい。

■イントロ

かつてネット世界ではテキストサイトの黄金時代があった。「侍魂」や「ろじっくぱらだいす」といった超有名サイトがスターになり、自分もその世界にどっぷり浸かっていた。自分もサイトを立ち上げて、似たような小さな個人サイトと、細々とつながっていたりしていた。その中で、葉月さんという方の個人サイトに、ヨーロッパを旅したときのことが書かれていた。「コンチキ・ツアー」というものに参加したという。「コンチキ」ってなんだろうと思った。それが、私と「コンチキ」との出会いだった。

これは、私のコンチキ・ツアー17日間の物語である。

ときは2003年の春。1年前に大学を中退していた私は、別の大学に再受験して合格し、新しい環境で新たな生活を始めていた。長い受験時代から開放された私は、早くも旅立ちのことを考えていた。

ヨーロッパに行ってみたい。しかしヨーロッパは遠い。飛行機でも片道で半日はかかる。できるだけ長く滞在したい。それなら時期は大学の夏休みで、ピークを避けるならば9月だ。ヨーロッパ大陸には、たくさんの国々が詰め込まれているから、できるだけ多く、効率よく回りたい。

そんなとき、思い出した。葉月さんが書いていた「コンチキツアー」のことを。

「Contiki Tour」とは、オーストラリアの会社が催している現地発着バスツアーのことである。世界各地から参加者が集まり、一台のバスに乗って、修学旅行のようなノリで各地を旅するツアーだ。その特徴は、参加資格に「年齢制限」があることで、18歳から35歳という若い世代しか参加できない。しかもツアー中は、もちろんすべて英語だ。

これは面白そうだ。テレビ番組「あいのり」みたいだ。ついでに生の英語力も鍛えられる。コンチキツアーには、さまざまなコースがあり、その中で選んだのはこれだ。

「London to Athen 17days」

英国ロンドンを出発し、ヨーロッパ大陸を斜めに横切って、8カ国をめぐる。ゴールはギリシャのアテネというルートである。

さすがに今回ばかりは事前にキッチリ英語を勉強しないと!と意気込んでいたものの、新生活の忙しい日々と遊びに追われ、結局、英会話の準備もままならないまま、旅立ちを迎えることになってしまったのであった。

■旅立ち

2003年9月5日という日付をよく覚えている。

長いフライトを終えて、ロンドンのヒースロー空港に降り立ったとき、妙に暗い雰囲気を感じ取った。英国といえば、何か栄華でお洒落なイメージがあったが、そうでもないのだろうか。明治時代に、英国に留学していた夏目漱石は、英国で憂鬱になったというエピソードがあったような気がする。

とりあえず通貨ポンドに両替し、空港から市内へ出る。空港へのお迎えはないので、自力で市内まで行く必要がある。ガイドブックには、エアポートバスが出ている、と書いてあるが、バス乗り場が見つけられない。ウロウロしていると、英国紳士が話しかけてきた。「バス乗り場が分からない」と伝えると、「OK!こっちだ!」という。英国紳士に感謝し、彼の後を追う。階段を登り、エレベータに乗って、扉が開くと、そこは薄暗い駐車場だった。

・・・この展開はヤバい。逃げよう。時差で頭もぼんやりしていたが、自己防衛本能が働き、なんとか逃げ帰った。英国って怖いな。改めてバスを見つけることができ、なんとかホテルへたどり着くことができた。

■ロンドンを歩く

ロンドンでは3泊の予定だ。とりあえず、ロンドン的な場所を回ることにした。ホテルから最寄の地下鉄の駅に入ろうとしたら、入り口に『ストライキ中』と書かれていた。電車は止まっているらしい。仕方がないので歩く。

バッキンガム宮殿、ビックベン、タワーブリッジ。聞いたことのある名所を巡る。

歩きながら、帰りの航空便のリコンフォーム(予約再確認)のことを思い出した。今回の大韓航空は必要とのことで、これを忘れると、勝手に予約が取り消されることもあるという。なんとも理不尽なシステムである。公衆電話から、大韓航空のロンドンオフィスにTEL。以下、英語でやりとり。

「リコンフォームをしたいんですが…」

「お帰りの日付とお名前をどうぞ」(マニュアル通りだ!大丈夫!)

「少々お待ちください」 (少々待つ)

「予約は入っていませんが…」(想定外)

電話の向こうからオペレーターがいろいろ話すが、焦りで、もう何も聞き取れない。か細い英語力では対処できなくなったので、日本語オペレーターに代わってもらった。

「やっぱり予約が入っていませんね」

日本、帰れないじゃん。どうしよう。

(後日談:システムトラブル最中だったらしく、予約はちゃんと入っていた。しかし焦る)

■ソールズベリの夕暮れ

ロンドンから「ストーンヘンジ」へ日帰りで行ってみる。

ウォータールー駅から西へ。都市部を出て、広がった田園風景に心奪われた。日本の農村にある寂しさとは違い、のどかな癒しをそこに感じた。

ソールズベリという小さな街に到着した。そこから20分ほどバスに乗り、田園の道をひたすら進み、放牧の景色が飽きるほど続いた頃、「お?」と違和感を漂わせた「石の群れ」が目に飛び込んできた。ここがストーンヘンジだ。

巨石群を囲むように見学コースがあって、直に石に触ることはできないが、ある程度近づいて見ることはできる。とにかく意味不明な石の配置である。その意味不明さが妙に心地よく、不思議なパワーを感じ、ミステリックな気分になる。これを築いた古代人たちと会話をしているような不思議な気持ちになってくる。想像を飛躍させれば、宇宙人たちと話しているような気分だ。

バスでソールズベリに引き返し、この街を少し歩いてみた。

木々や小川の自然が、コンパクトな街とうまく調和していて、散歩するだけで気分が優しくなってくる。小さな街だからか、それとも日没前という時間のせいなのか、道行く人影はほとんどない。それもまた大都市ロンドンとは対照的で、安らぎを感じる。

街は平地で、周囲に丘陵もなく、家々の屋根も一定の高さに揃っているが、この街で一箇所だけ、この均衡的な景観を突き破っている場所がある。それがソールズベリ大聖堂だ。

天に向かって突き出た立派な尖塔が見える。この大聖堂は、人々の暮らしとともに、長い長い歴史を歩んできたのだろう。街の人々にとっても象徴的な存在に違いない。大聖堂が持つ歴史の深さや威厳さに、ただ心を奪われ、尖塔をじーっと見上げながらしばらく佇んでしまった。夕暮れどき、独特の雰囲気がこれに重なって、心に深く刻まれた。

私たち日本人の感覚では、掴みづらいかもしれない宗教的な威厳さのようなもの。中世のヨーロッパでは、キリスト教という存在が本当にとても大きかったのだろうと考える。日本人である自分でも、この大聖堂を前にしてみれば、ちっぽけな存在な自分に気付かされ、キリスト教の権威にひれ伏してしまいそうな感覚だった。

■花の都パリ

「パリ」。そのたった2文字の中に、どこまでも深い優雅さが含まれているような気がする。「パリへ行く」というただそれだけでもう酔わされてしまうような感覚。フランス共和国の首都、花の都パリ。世界中のあらゆる旅行者を魅了する。

パリを歩けば、どこからでも見えるのが「エッフェル塔」だ。造られた当時、「そんな塔は不要だ」と批判されたのは有名な話である。だが、今ではパリを象徴する存在となっている。時間の流れは、何でも飲み込んでいくのかもしれない。展望フロアまで上るエレベータで、フランスの小学生たちの団体と一緒になった。遠足だろうか。「ぼんじゅーる」と言ってみたら、「bonjuor!!」と美しい発音で返ってきた。展望フロアから、街を見渡すことができる。強風が吹きつけていて、かなり肌寒かったが、景色は素晴らしかった。

「凱旋門」へ。ナポレオンが活躍した栄光の時代に思いを馳せる。門の重厚さと荘厳さに圧倒されてしまう。近くでよく見てみると、銃弾跡がたくさん残っていることに気づく。子供のころ読んだ歴史マンガで、明治時代にパリを訪れた岩倉具視が、同じように銃痕について語るシーンを思い出した。歴史的建造物を見ると、過去と対話しているような不思議な感覚になる。

凱旋門の広場からまっすぐ伸びている「シャンゼリゼ通り」。世界一有名なストリートかもしれない。その通りを、ツアー仲間のジョンと二人で歩いている。彼は20代後半ぐらいのオーストラリア人で、通信系の会社に勤めているという。「大学では何を勉強しているの?」とか「将来は何になるんだい?」という話になった。自分は大学1年生で、将来の仕事のことなど深く考えたことがなく、返答に詰まった。ジョンからすると、「大学で勉強したこと=将来の仕事」と直結するものであるらしい。それが彼らの価値観のようであった。だから、返答に詰まる私は、ジョンにとっては少し不可解なのだろう。

一般的に日本の大学1年生というと、将来のことを具体的にイメージせず、とりあえず大学に入ったという人たちは多数派のように思える。その良し悪しは単純に言い切れないにしても、それが日本的な習慣であって、その社会の中で私はずっと生きてきたことも事実だ。こうして異文化の人と話すことを通じて、そのギャップを感じることも多く、そこから学ぶこともまた多いのだ。

ルーブル美術館へ。空間は広大で、展示物も無限にあるように思える。これを全てじっくり見て回ってたら1週間あっても足りないかもしれない。ジョンと「とりあえずモナ・リザだけ見ておこう」と確認し、かの有名な「モナ・リザ」を観ることができた。私が訪れたときは撮影OKであった。かつては撮影禁止だったらしく、警備員と盗撮の闘いが繰り広げられたらしいという話も聞いた。

9月のパリの夜は冷え込む。ムーラン・ルージュの前にあったカフェで、飲んだホット・ショコラ。甘さと濃さで、身体は温まる。あれは、私の中で世界一のホット・ショコラになった。

■スイスの湖畔にて

スイスの都市ルツェルン。湖畔に広がる町には、いまだに中世の時間が流れていた。湖の色と家々が調和していて美しく、まるで一枚の絵画のようだ。

この長い旅の中で、自分に課していた決めごとが1つある。訪れたすべての国から自宅宛にポストカードを送ること。ロンドンやパリでも投函してきた。郵便局を見つけて、ポストカードを書いていたら、横を通りかかったスイス人が声をかけてくれた。「宛名の上の部分に、『A』と書いておくんだ。そうすると速く届くよ!」。親切な人から優しさと温かさが自分に届く。それ以降、Aを書くことが習慣となる。

今夜の宿は、監獄ホテル。かつて監獄として使われていた建物である。部屋の雰囲気もドアの形も本当に牢屋そのもので、とても面白い。

「この街に住んでみたいなぁ…」。ツアーメイトのカナダ人のアンが呟いていた。

■リヒテンシュタイン公国

ルツェルンを発って、しばらくバスが走ると、リヒテンシュタインという国に入った。

世界で6番目に小さな国らしい。初めて聞いた国名だった。地図を眺めても、どこにあるか見つからない。外交も国防も、隣のスイス連邦に全部お任せという、のんびりした国だ。そこで暮らす人々やゆったりと流れる時間に触れていると、タイムマシーンに乗って中世ヨーロッパまで来てしまったような感じがする。時代錯誤のような気もするが、実際ここには公爵がいて、彼がこの公国を治めているという。

パスポートに押した入国査証は、「観光記念スタンプ」みたいだ。

■ビールの街ミュンヘン

夕方すぎ、バスはドイツに入った。南部の都市ミュンヘン。Munich。英語で読むと「ミューニッヒ」。ドイツといえば、ビール!

ミュンヘンには巨大なビアホールがある。小学校の体育館のような広さだ。そこには、木製の長テーブルと長イスがびっちりと並び、ステージではバンドがカントリーミュージックを演奏している。ホール内は、たくさんのドイツ人たちと観光客で混み合っていた。

同席したのは、ニュージーランド人のデイブとその奥さんであるニック。それとオーストラリア人のナイスガイのビルとその彼女ケリー。ビールを5人分頼むと、ピッチャーサイズの巨大なビールが5つ出てきた。これがドイツではスタンダートなのか。酒宴は始まる。つまみはプレッツェルだ。

「もう一杯飲むべ?」とビルが誘ってくる。おかわりは進む。ふとステージからの曲に気づく。

♪take me home country roads~

カントリーロードだ。なんか本場感があって嬉しい(本場はどこなのだろう)。場内でも大合唱が起こる。あつい。あついぞ。

隣に座っていたドイツ人老夫婦と語る。ドイツ人おじいちゃんが「どっからきたんだい?」と私に尋ねてくる。私が答える前に、酔っ払いのデイブが「メキシコー!!」と答える。陽気なおじいちゃんは何度も何度も「メーキシコー!!」と叫び、私はメキシコ人となった。あつい。あついぞ。

そのあたりから記憶は曖昧だ。ピッチャーサイズのジョッキを何杯も飲み、帰りのバスの中で私は踊り狂っていた(らしい)。翌朝、みんながその話を楽しそうにしていた。自分の殻を破ったから、仲間たちとの距離が近づいた。それが何だかとても嬉しかった。

■その場所で歴史を知るということ

ミュンヘンからバスは南下し、オーストリアへ入った。「ダハウ収容所」に到着。第二次大戦下のナチスの収容所。その跡地である。

バスを降りるとき、ツアーメイトの女性が泣いており、ルー(ツアーマネージャー)と何かを話していたのが目に入った。遠目から見ただけなので、何があったのかはよく分からない。彼女は、駐車場に1人で残った。

跡地は、閑静な場所となっている。普段から神とか霊とかそういった類のものを意識してない。ただ、ここにいると、何かを感じる。塀の針金、建物の柱、壁、土、石ころ・・・こういったものを見ていると、何か感じるものがある。その何かが、言葉にできない。死者の霊みたいなものが、語りかけてくるような、そんな感覚。

歴史的な事実は、いろいろな面から考えるようにしている。一方的な見方や、押し付けに染まらないように注意するようにしている。だが、今ここで頭が混乱している。この収容所跡地でさえ、政治的なイデオロギーがどっかしらに潜んでいるんじゃないかとか、そんな余計な考えも浮かんでしまう。もう少し心の奥深い場所に耳を傾けてみる。自分の素直な感覚は、ここが重く、悲しく、苦しい、深刻な場所と捉えることができる。そして、今の自分の周りが平和であることだけは、少なくとも感謝すべきなんだ。

バスに戻った。車内は何かいつもと違う静かな空気だった。みんなそれぞれ思ったことがあるのだろう。楽しいことが大好きで、酒を飲めば大騒ぎするし、ディスコでは踊り狂うし、そんな愉快な仲間たちだけど、みんな大人なのだ。カナダ人がいる。オーストラリア人もいる。ニュージーランド人がいて、メキシコ人、アメリカ人、そして日本人がいる。それぞれ国は違くても、思うことが、同じような場所に行き着いてるのかもしれない。そんな気がした。もしそうならば、世界平和は遠くても、このバスの中には、小さな希望がある。そう思った。

■オーストリアの夜

オーストリアのチロル地方は、アルプスの山岳地帯にある避暑地。ペンションのような建物が、今夜の宿になる。このツアー中、単身参加の私は、同じく単身のジョンとルームシェアをしている。部屋に入ると、なぜかダブルベッドで戸惑う。ジョンが、隣の部屋のグレッグ兄弟のところへ様子を見に行くと、彼らの部屋にはベットが3つあったので、ジョンはそっちへ移動することになった。無事解決。

ペンションにはバーもあり、そこで宴は始まる。

ビールを飲み、カクテルを飲み、昨夜のミュンヘンのビアホールで一緒に飲んで以来、私を同志と認めたビルは、「モトーキー!飲むぞー!」と絡んでくる。ワンショットグラスでの一気飲み勝負が始まり、日本VSオーストラリアの代表戦は、日本側(私)の敗北で終わり、ディスコ!ディスコ!と今度はそっちに連れていかれて、みなで踊り狂い、酒を飲んではまた踊り、人生初のディスコは、みんな慣れてるなぁ上手いなぁと思いながら、とりあえず見様見真似で、リズムに乗ってるのか乗ってないのかのアヤフヤな動作で、まぁいいやと踊っては酒を飲んでまた踊り、ビルはまた「モトーキー、飲むぞー!!」と二回戦を仕掛けてきた。そんな最高の夜。オーストリアの素晴らしい夜。コンチキは最高だ。

■ラフティング

ツアー初日、オプショナルツアーを申し込むとき、「ウォーター・ラフティング」というのが面白そうだと思い、参加にしておいた。実際、ラフティングがどういうものなのか、その時点で私は、どうやらよく分かっていなかったらしい。まぁカヌーのように、のんびりと流されつつ、景色を楽しむ、そんな穏やかな川下りを想像していた。そして、それは大きな間違いであった。むしろ真逆だった。

ウォーター・ラフティングは、全身がズブ濡れになるほどの激しいスポーツである。メガネをかけていた私は、「メガネは外すけど、大丈夫?」とインストラクターに言われ、マネージャーのルーも、 「水はとっても冷たいわねー。サイアクよ。」と笑って言ったとき、「え、水に濡れるの?」と戸惑った。もちろん、タオルや着替えなど一切用意してない。

全身タイツのようなウェットスーツとライフジャケットを着込み、ヘルメットをつけ、防備は万全。しかし、防寒という面では貧弱で、寒い。

参加者は全部で20数名、ボートが3台用意されて、私のボートには8人が乗った。ボートごとにインストラクターが1人乗り、彼の指示でボートを漕ぐことになる。

始めは穏やかな流れで、インストラクターが「漕げー!!」と合図をすると、みんなで必死にオールをかき回し、「ストーップ!!」と言ったら、その動作を止める。そんなことを繰り返しながら、徐々に水流は速くなり、川をぐんぐんと下っていく。他のボートも同じようなことをしている。追い抜いたり抜かれたりしながら、ときにボートが近づけば、オールを使って相手のボートに水を掛け合いっこしたりしていた。みんな子供のように大はしゃぎで、隣にいたグレッグは「How old are you??!(お前らはいったい何歳だ?!)」と叫んでいた。

そして、流れが緩やかになってくると、水の中に飛び込む者あり、泳ぐ者あり、流されていく者あり、しまいにはボートに乗ってる者を水の中に引きずり下ろす者ありと、カオス状態に。ついに「モトーキー!!カモーン!!」と巻き込まれてボートから引きずり降ろされる。川の中は、氷水のようだ。ライフジャケットがあるから身体は浮くので、溺れはしないが、とにかく水が冷たくて冷たくてしょうがない。「ヘルプミー!」と叫び、ジェイミーが差し出してくれたオールに捕まって救助された。エキサイティングなウォーター・ラフティングは、30分ほどでゴールへ到着した。とても楽しかったし、とても寒かった。そして何よりみんな若かった。なんか風邪ひきそうだ。

■水の都ヴェネチア

—- Venice

ある人は「ベニス」と言い、ある人は「ヴェネチア」と呼ぶ。個人的には「ヴェネチア」という語感が好きだ。イタリア北部にあるこの都市は、アドリア海の最深部に位置し、かつてはヴェネチア共和国として繁栄の時代もあった。旧市街は、運河が毛細血管のように通してあり、まさに「水の都」である。

この街は、迷路のようで、歩くだけで面白い。複雑に小道と小道がつながっていて、どの道も裏路地のようだ。迷い込んだ自分がなんだか面白い。ところどころに小さな案内板があり、現在地を知るのに役に立つ。不思議な仮面を売っているお店が多いような気がした。

オプショナル・ツアーで「ゴンドラ」に乗った。水の上から見るヴェネチアの街もまた美しい。ゆったりと流れながら、舟の上でメンバーたちとワインを空ける。なんとも優雅で贅沢な時間である。

ヴェネチアは、この旅の中で訪れた都市の中で、最も奥ゆかしくて美しい街だったという印象がある。いつか自分のゴンドラを持って、この街で暮らしたら面白いな、などと夢見た。

■フィレンチェ

小高い丘にあるミケランジェロ広場に立ちつくすと、フィレンツェの街が夕陽でオレンジ色に染まった。

映画「冷静と情熱のあいだ」の舞台の1つが、ここフィレンチェである。この映画で登場するのが「恋人たちのドゥオモ」。ここに2人で昇ると幸せになれるという伝説がある。そして、主人公たちはドゥオモのてっぺんで、めぐり会うことになる。

ミケランジェロ広場から、すぐに見つけることができる。街全体を眺めていると、建物の高さや色合いは、一つの絵画作品のように、まとまっている。その中でも、ドゥオモは、街のシンボルのように、強く荘厳に、そして優しく、唯一無二の姿で佇んでいた。

ドゥオモの近く、たまたま入ったジェラート屋の店員さんが日本人だったことに驚く。

「こんにちは!」

「あれ?日本の方ですか?」

「うん。」

「留学か何かですか?」

「歌の勉強でこっちに留学してるんだけど、もう2年半になるわ」

外国人たちと一緒にバスで旅を続けて、13日目。不器用な英語で気持ちの表現もままならず、妙に日本語が恋しくなっていたタイミングだった。遠い外国の街で触れた日本の空気。少し元気になった気がした。

「これから、どこ行くのー?」

「次はローマにいくんですよ」

「ローマはすごく良いところよ!楽しんできてね!」

店員のお姉さんは、ジェラートにホイップクリームをサービスしてくれた。人の優しさと温もり。こういうめぐり会いが、旅の中で一番好きな瞬間だ。

■そして、ローマへ

『もっとも印象に残った訪問地は?』と尋ねられたアン王女は、映画の中でこう答えていた。『いずこも忘れ難く、良し悪しを決めるのは困難…、ローマです!もちろんローマです。今回の訪問は永遠に忘れ得ぬ想い出となるでしょう』(「ローマの休日」より)

ローマという名には、永遠の憧れみたいな響きがある。「ローマは1日して成らず」とか、「全ての道はローマに通ず」とか、いくつかの諺もある。古代の地中海世界を制したローマ帝国の都。この街は、掘れば掘るだけ古代遺跡が出てくるという。ローマは、永遠の都だ。

フォロ・ロマーノ。古代ローマの政治・宗教の中心であったエリアである。数え切れないほどの遺跡群が広がっている。近代ビルが建ち、車が走り、多くの人々が暮らすこの街は、現代都市としての一面と、こうやって剥き出しに遺跡が残る古代都市としての一面があり、その調和が、街の魅力と面白さであるように思える。

「真実の口」。映画の中で、グレゴリー・ペッグは、手を噛み切られた振りをしてアン王女を驚かせた、あの場所だ(名シーンだ)。観光客が多く集まっており、口の中に手を入れて、記念撮影をしている(もちろん自分も)。そのせいか、口の部分はだいぶ擦り減ってるように感じた。「真実の口」はもともとはマンホールのフタだったとか。

超巨大建築物「コロッセオ」。古代ローマ人たちにとって、剣闘士や猛獣の命をかけた闘技は、最高の娯楽であったという。現代でいうところのスポーツ観戦のような感覚だろう。最大で4万人以上を収容できたというのだから、5万人収容の東京ドームくらいの規模感だ。内部から見渡しても、よくこんな大きなものを造れたなと驚嘆してしまう。ローマ帝国の力は凄まじかったのだ。

夕方が過ぎ、ローマ観光をひとしきり終えて、そろそろホテルに戻るか…と思った。途中のスーパーで水とお菓子などを買い物していると、「こんにちは!」と日本語で話しかけられた。ふり向いてみると、少し離れたところに一人の女性が立っていた。最初、それが日本語と分からず、というより自分に話しかけられたとは思わず、キョトンとしていると、その女性は「Are you Japanese?」ともう一度言い直した。

話が弾んできたので、近くのカフェに入って座った。聞くと、今さっきローマに着いたばかりであり、明日はクロアチアへ発つという。旅先で出会う人々は、みな果敢に旅を続けていく。自分も見習わなくては、そんなことを考えた。

「スペイン広場」に行きたいんだけど…というので少し付き合うことにした。「『ローマの休日』大好きなの!だからここ来てみたかったんだ」。このとき私はまだ映画を見ていなかった。事前に見ておいたら、この場所も違って見えたのかもしれない。

「意外と狭いんだね」「人がいっぱいいるせいじゃない?」「そっかー。明日の朝もう1回来ようかな」

彼女はその足で「トレビの泉」へ向かい、私はホテルへ戻る時間だったので、そこで別れた。ほんのわずかな時間だったけれど、妙に温かくて愛おしい時間だった気がする。外国人たちと旅するのは面白くて貴重な時間だけど、こうしてたまに日本人と出会い、日本語をしゃべると元気をもらえる。心の中で、ありがとう。とつぶやく。

横浜に住んでいると言っていたので、いつか横浜駅あたりで偶然出くわすんじゃないか。連絡先一つでも交換しておけば、また再会することもできたのかもしれないと思ったりする。でも逆に、人生というストーリーの中でほんの一瞬の出会いだったからこそ、その一瞬は、いつまでも旅の記憶の中で永遠に生き続けている。それはそれで有りなのだろう。ローマはやはり「永遠の都」なのかもしれない。

以下、その日の旅記メモをそのまま抜粋したもの。

『ようやく気付いた、思い出した。誰かの中で存在する自分、誰かの中でしか存在できない自分。強が っても、結局誰かに救われている自分。旅は出会い。今まで多くの人々、とりわけ日本人に出会った。彼らのおかげで、また自分は存在していけると確認する』

■アドリア海をわたる

ローマの旅立ちは、別れ。何かが終わるときに気付かされるのは、見逃していた大切な人たちとのこと。この旅はまだアテネまで続いていくけれど、メキシコ人のターニャたち数人と共に旅するのは、ここローマまでということだった。

バスの席から、窓の外を見る。みんなで別れを惜しんでいて、握手をしたり、抱擁したりしていた。その光景に触れたとき、はじめて私は、かけがえのない仲間たちと、ここまで一緒に旅をしていたことを知った。大切なことを自分はなおざりにしてきたことを知った。

動き出したバスの中で、ターニャに恋心(*推測)を抱きつつあったグレッグの寂しげな背中が見える。それは少し分かる気もする。遠く広い世界から集まってきた人たちが戻っていく場所もまた遠い。窓越しに大きく手を振った。

午後6時、バスはついにアドリア海に達した。港町ブリンディジ。かつてはローマ帝国の主要港でもあったという。ここからフェリーに乗って、アドリア海を横断し、バルカン半島の先っぽにあるギリシアへ向かう。

ロンドンから我々を運んできてくれたバスも、ここまでになる。そして、ドライバーのジョンともお別れなのである。バスを降りる直前、ジョンが車内で最後のあいさつをしていた。英語だったからよく分からなかったけれど、気持ちは伝わってきた。内容を言葉で理解していたら、泣いてしまうところだったかもしれない。フェリーの前でジョンと写真を撮り、別れの握手をした。

今夜は、船上で一泊することになる。フェリーはとても大きい。船内を歩くと、キャビンの廊下やデッキが、客船「ふじ丸」になんとなく似ている気がした。「ふじ丸」は、1ヶ月前に参加した「洋上セミナー」というボランティア活動で乗船した船だ。腕時計の針を進める。ギリシア時間は、イタリアより1時間早い。

出航となり、デッキに出る。そこから眺めるイタリアの夜景。「バイバイ、イタリア」とつぶやく。肌寒い夜風と寂しげな波の音、おぼろげな街の灯り。遠ざかる景色を眺めていた。

デッキからは、星がはっきりと見える。とても美しくて、とても寂しげな気がした。「洋上セミナー」のときの星座観察もこんな感じだったっけ。何となく昔のことを思い出していた。地球の裏側の日本でも同じ星を見ていたのだろう。忘れたはずのものを、ときに強く、ときにうんざりと思い出す。なぜか感傷に浸りたくなる夜だった。

イタリアが見えなくなり、暗闇が広がった。星が偶然ひとつ流れたのを見た。ギリシアへ。そして、旅の終わりが少しずつ近づいていた。

■コルフ島での奮闘

朝もやの中、遠くに微かな島影が浮かんだ。コルフ島だ。もうここはギリシアになる。地中海に浮かぶリゾートアイランドだ。ふるきよき田舎っぽさも残っていて、散歩するだけでも気分が良い。

私は、この島でやらなくてはいけないことが1つあった。それは、「ミコノス島」という島に行くための航空券を購入することだ。このツアーがアテネで終わり解散したあと、私はミコノス島に行きたいと思っていた。そして、ここコルフ島には、国内便を扱うオリンピック航空のオフィスがある。

「金曜日にミコノス島へ行きたいので、チケットを取りたいのだ!」と力説する私。「それは無理ね」の一点張りの担当者。「なぜダメなのだ」と何度も聴き、何度も説明されるも英語がよく分からず、10分ほどやりとりして、ようやく相手の言わんとすることが分かってきた。つまり、彼女は「ミコノス行きの飛行機はアテネから出ている。だから、ここコルフ島から直接は行けないのだ」と言いたかったらしい。そういうことか。「アテネまでは自力で行けるから、欲しいのは『アテネからミコノスへ行くチケット』だけだ!」と改めて説明すると、彼女もようやく納得してくれた。目的のチケットは手に入った。コミュニケーションって難しい。

■ジョージのボート

港に到着すると、満面のファインでウェルカムしてくれたのは、ジョージという恰幅のいい男だった。今日1日、彼のボートに乗って、突き抜ける晴天と蒼い海を楽しむ。早速、出航。

ところどころでボートを止め、水着を着た各々は、そのまま海に飛び込む。疲れたら、船に戻って、デッキで照りつける太陽を浴びる。そんな至福な時間が流れていたが、私はそのとき完全に体調を崩してしまっており、海水浴はせずに、船上のビーチベッドで眠っていた。

ジョージのボートには、キッチンも備え付けられている。パン・ハム・ポテト・チーズや野菜などが載ったプレートのランチ。食事が終わると、国ごとのチームで、それぞれの母国の国歌を歌うというイベントが始まった。まずはチーム・オーストラリア。続いて、キウイの愛称であるニュージーランドのチーム。次のチーム英国は、マネージャーのルー1人の独唱になった。メンバーが一番多いのはカナダ人たちのチームだ。映画とかで聴いたことがある、このメロディはチームUSAの歌。ジョージのボートには、あらゆる国の国歌のカセットテープがあるのだ。

そして最後は我々日本人だ。日本人チームは自分含めて合計3人。曲はもちろん「君が代」である。途中から、だんだん歌詞があやふやになってくる。君が代ってこんなに長かったか。

それぞれの国で、みんな自分たちの国歌に誇りを持って歌っていた姿が印象的だった。私は途中から歌詞が分からなくなり、少し恥ずかしいような気もした。こんなヨーロッパの果てに来ても、やっぱり自分は日本人であり、国歌は「君が代」であることに気づく。豪州・NZ・英国・カナダ・米国の国歌は、力強くて明快なメロディとリズムだった。それに比べて「君が代」は地味で暗いトーンの曲だ。でも、この静けさや厳かさ、「さび」の境地に似た重く力強く心に響く心地は「日本の良さ」でもあり、歌詞の一語一語にも深い味わいがある。それが日本の「君が代」だ。「日本」という国、そして「日本人」である自分。海外に身を置くことで気付くことがある。

■ツアーのたどり着いた場所

アクロポリスは、ギリシアの首都アテネの中心にある小高い丘だ。石造りの白い神殿であったり、極太の柱であったり、イメージ通りのギリシアが、ここにある。訪れたときは、ところどころで改修工事中だった。

古代ギリシアの時代、都市国家アテネでは民主主義の政体が布かれていたという。その政治の中心となった場所がここアクロポリスだ。古代の政治家たちは、この丘の上からアテネの町並みを眺めながら、何を思っていたのだろう。ぼんやりと思いを馳せてみる。建物一つ一つのダイナミックさと、細かな装飾を見つめていると、当時のギリシアの文明の高さに驚嘆する。その頃、極東の日本人の祖先たちは、石やりでマンモスでも追いかけていたのだろうか。

■別れ

ロンドンから一台のバスに乗って、共に旅してきた仲間との時間が終わる。ふりかえれば、17日間も同じ時間を過ごしてきた。自分は英語もままならず、コミュニケーションもヘタで、1人で殻に引きこもってしまったり、涙した夜もあったりした。それでも、この仲間たちは、みんな優しくて温かくて、笑うことが大好きで、その中で自分はやっぱりこの旅を楽しんでいた。巻き戻すことのできない夏のヨーロッパを、彼らとともに旅ができて本当によかった。このメンバーとコンチキツアーは最高だ。

ツアーの解散のとき。みんなで抱き合う。あふれ出しそうな涙は堪える。最後は笑って手を振りたい。

「カナダに来たときは、泊めてあげるからね!」陽気なトレイシー姉さんが言ってくれた。

「モトーキ!オーストラリア来いよ!」酒好きのビルが言ってくれた。

ニュージーランド人のデイブは、別れの品にお守りをくれた。幸福のお守り。そして「ニュージーランドで会おう」と約束した。(この約束は一年後、果たされることになる)

重なった足跡がまた離れていく。本当に1人になった自分は、アテネの街に溶けていく。

■ミコノス島へ

友人から話を聞いて、ミコノスという島に興味を持った。アテネから船なら5時間、飛行機なら40分で行けるらしい。航空券は、前にコルフ島で奮闘しながら取ることができた。早朝5:30発の飛行機に乗って、アテネを発った。朝焼けの中、ミコノス島へ到着。

ミコノス島(mykonos)は「エーゲ海の白い宝石」と呼ばれる。島は小さく、人も少ない。唯一の街であるミコノスタウンに到着したとき、私もこの島の美しさに囚われた。真っ白く染まった住宅街。青い空と青い海のコントラストの景観。夢の世界のような美しさがある。

街の中は迷路のようになっている。自分の今いる位置や方向感覚が分からなくなって、それがまた面白い。かつて海賊が侵入してきたときに、迷わせるように、このような造りになっているという。それはもちろん昔の話。今では島の時間は穏やかに流れていて、そこらじゅうでネコがあくびをしている。ペリカンのペトロ君が、そのあたりを歩いている。島民や観光客みんなから愛されているマスコット的な存在だ。

ミコノスタウンを少し離れて、郊外にある浜辺へ行ってみようと思った。島内はバスもあるらしいが、歩くことにした。時間はたっぷりあるし、この島をよく見ておきたかった。田舎の道を歩きながら、追い越していく車が、「どこ行くんだーい?乗っていくかー??」と陽気に声をかけてくれる。人情味を感じて、なんだか嬉しい。「歩きたいんだ!ありがとう!!」。それは、一度きりでなく、追い抜く車やバイクが次々と声をかけてくれる。

ビーチに到着し、しばらく砂浜で昼寝をしてから、また同じ道を歩いてミコノスタウンへ引き返す。歩いていると、追い越していった車が側で止まった。おばあちゃんだ。「どこいくの?」と聞かれて、「ミコノスタウン!」と答える。おばあちゃんは「乗ってきなさい!」と言ってくれたので、言葉に甘えた。話を聞くと、このおばあちゃん、英国人とのことで、大昔にミコノス島を訪れてから、この島に惚れ込んでしまったらしく、定年後にやってきて、今は定住しているという。「島にはどれくらい滞在するの?」と聞かれて、「いや、今日来たんだけど、もう帰るんだ」と答える。おばあちゃんは、「もったいないわねー!もっといればいいのに」と言い、少し残念がっていた。私もまだこの島にいたかったけれど、時間は許してくれない。「友人で、ミコノスという名前の子がいるんです」って話をしたら、おばあちゃんはビックリして喜んでいた。

ミコノスタウンに到着。僕は御礼を言って、車が離れていくのを見送った。何とも不思議な時間だった。別々の人生を歩んでいた2人が、車内という小さな空間の中で、わずかな時間ながら、お互いの身の上話を交わした。遠い日本にミコノスという名の子がいるという話を聞いたおばあちゃんにとっても、それは不思議な感覚だったかもしれない。

いつか自分も同じように、この島で暮らしたいと思った。遠い未来、それはいつ叶うことになるのか、わからないけれど、そんな素敵な夢をいつまでも持ち続けていたい。

空港へと向かう道の上で、後ろを振り返ると、夕陽があたりをオレンジ色に染めていた。風車は夕暮れに輝いていた。

行かなくちゃ、自分の道を。帰らなくちゃ、自分の生活に。

心の隅で寂しさを噛み締めながら、これから再開する日常に少しワクワクした。少しだけ笑顔になって、軽い足取りになって、私はミコノス島に別れを告げた。

【完】