2004年、ニュージーランドの旅
旅程:2004年12月16日〜2005年1月10日
■旅のプロローグ
ヨーロッパのツアーで大親友となったニュージーランド人のデイブ。アテネで彼と別れるときに、「ニュージーに遊びに来いよ!」と約束して以来、いつかいつかと思い、ようやく2004年の冬に旅のメドがついた。大学の冬休みをまるまる使って、年越しもあっちでやってしまうという3週間にも及ぶ旅行計画を立てた。とは言っても、デイブに会う、ニュージーランド島を一周する、宿はその場その場で、帰りに香港寄るか、程度のもので、なかなか無計画なもんだ。
デイブといつ会うかというメールのやり取りの中で、あわよくば異国のクリスマスを…と企み、到着できるのはクリスマス前後かなぁ、とメールをしたら、「オーケー!オーケー!」と快諾。よっしゃ。こうして、今年は1人きりのクリスマスにならなくてすみそうになったのであった。
■はじまりの街、オークランド
ニュージーランドの旅は、ここオークランドから始まる。ニュージランドの形は、なんとなく日本に似ている。日本列島のように、南北に伸びるニュージーランドのちょうど頭のてっぺんの部分に位置し、120万人の人口を抱え、これはどうやらオセアニアだと最大の都市であるらしい。ニュージーランド人の4人に1人は、この街に住む。しかし首都ではない。この国の首都は、ウェリントンという街だ。オークランドは、かつて首都であったらしい。そのため、たくさんの人々が住んでいるし、経済的な中心は首都よりもむしろこっちだろう。日本からの飛行機も、首都ウェリントンや南島最大の都市クライストチャーチよりも、安いのである。そんな理由からこの旅はオークランドが出発点となった。寒がりな私は、真冬の日本を逃げ出し、いわば避寒地として南半球へやってきたというのに、到着したオークランドはやたら寒かった。おかしい。
街を歩く。美しくてキレイな街だ。寒いけれど、突き抜ける青空はより一層心を晴れやかにさせてくれる。港町でもあるオークランドには、多くのヨットがその帆を休ませていて、ヨットハーバーとしても有名だ。しかし、なんとなく物足りなさはある。それはこの街というよりもむしろこの国自体が移民国家であり、人工国家であるということだ。つまり、キレイで美しく整ってる反面、混沌とした粗雑さというような面白みには欠ける。これは長い旅のあいだ、常々感じてしまったことだ。とは言え、やはり先進国ばりなインフラや衛生観念などを考えると、旅はしやすいのは事実だ。私のニュージーランドの第一印象はこんな感じであった。しかし、初っ端から全快な旅ばかりではない。これからどんなことが起こるんだろう。まだまだ長い旅路は始まったばかりなのだ。
■旅のスタイル
この島を3週間かけて回る、というのが今回の旅の大まかな目標である。今思い返せば、かなり強引な駆け足旅行ではあったのだが、とりあえず北の都オークランドから始まった旅は、南へ南へ向かう。やたら寒いなと感じていたけれど、南へ行くなら次第に温かくなるからいいじゃないか!とふと気付いたが、逆である。ここは南半球だから、南へ行けば行くほど寒くなるはずである。前途はなんとも多難だ。
ニュージーランドには、交通手段として鉄道という概念がない。いや、鉄道は確かに走っている。しかし1日2本だ。それが地方の鉄道というのではなく、オークランド-ウェリントン間、日本で例えるなら東京ー大阪間の電車が1日2本なのである。基本的な移動手段はバスということになる。逆にニュージーランドのバス路線は、島中を網の目のように隈なく走っていて、主要都市間の移動はこれでオッケー、時間も正確、おまけにリムジンバスで乗り心地は快適だ。
旅の大事な構成要素「宿」については、ニュージーランドでは「バックパッカーズ」という宿が大いに賑わっている。
普通のホテルと違って、バックパッカーズの特徴は、まずドミトリーが基本であること。4~8人もしくはそれ以上の旅人たちが一つの部屋をシェアする。ベットには基本的にマクラも掛け布団もなく、旅人たちは自らの寝袋を持ち歩き、それを利用する。トイレやシャワーも共用だ。もう1つは、キッチンが自由に使えること。ガスコンロや調理器具、食器も勝手に使ってよいので、食材さえ自分で用意すれば、自炊が可能なのである。もちろん使ったものは洗って戻すというルールはある。
つまり、バックパッカーズは安く旅をしたい人々にとって、とても心強い空間なのである。バックパックを背負って自由に旅する人々をバックパッカーと呼ぶ。ここは彼らが集まりそしてバラバラに散ってゆく交差点なのだ。おのずと人々の出会いの場でもある。ユースホステルと形的にはほぼ近い。ニュージーランドの物価がまあ日本並みとして、一泊するのに日本円1500~2000円ぐらいで済む。
この旅は毎晩バックパッカーズのお世話になった。ニュージーランドには本当に多くのバックパッカーズがあって、その町その町の色やオーナーたちの趣味が形になっていて、バラエティに富んでいる。日本にこういう宿があれば、若者や外国人旅行者にもウケがよさそうな気がした。「日本でバックパッカーズを経営してみたい」とふと考えた。いつか出来たらいいな。
■温泉
世界紀行は、南へ向かっている。オークランドをスタートとした旅人たちは、基本的にロトルアという街を次の目的地に設定する。この辺りは地熱地帯であるらしい。つまりは温泉が出る。なんだか日本に似ている。湖畔を散歩していて、地面からプツプツと水が湧き上がっているのが見えた。水というよりも、地熱で温められた源泉みたいなものだろうか。夢中に見学していたら、「立ち入り禁止」区域を歩いてしまっていたらしい。いきなり熱湯の間欠泉が噴出したりして危ないのだろう。
街から少し歩いたところに、観光スポットとして「ファカレワレワ地熱地帯」というロトルアの魅力を凝縮したような場所がある。ここでは人の身丈の何倍もの高さに噴き上がる間欠泉を見ることができる。最大で15メートルに達すとか何とか。周囲一体は硫黄の臭さが漂う。
ロトルアは、そんな地熱な街で、「温泉」に入ることができる。「スパ」と呼ばれるところで、日本の温泉とは違い、水着着用、男女混浴だ。お湯もぬるいので、温水プールに入ってる感覚に近い。湯に浸かりながら、横にいたニュージーランド人のおじさんは、「今年は寒いんだよ」と言っていた。そうか、ニュージーに来てから「寒い寒い」と感じていたが、あながち間違いではなさそうだ。
■マオリたち
ひとりのオランダ人が、ニュージーランドという島を発見したらしい。名をタスマンという。そしてその名は今でも「タスマン海」やら「タスマニア島」などに残されている。ヨーロッパ人たちが入植する前、この島の住人たちはマオリである。焼畑農耕や狩猟などで暮らしていたという。
両者は対立した歴史を持ちながらも、いま現在では共存の道を歩いている。経済的・人口的な不利を補うためにも、そして何より失われつつある伝統文化を未来へ受け継ぐためにも、マオリ文化を守ろうとする動きは、この国では自然な流れとなっている。世界的にも、「原住民」と「移民」との共存が比較的成功したケースではあるらしい。
ロトルアではマオリ文化に触れることもできる。「ハンギ・ツアー」というものに参加した。マオリの村の入り口は、他部族の侵入を防ぐため強固である。おそらくここは観光客向けに造られたものであろう。森の中に村がある。民族衣装を着て、歌を歌ったり工芸を披露しながら、出迎えてくれた。大きな集会所のような建物のステージでは、踊りや歌を披露。荒々しい力強い動きは、彼らマオリの生活を垣間見させてくれる。マオリの文化観光は、白人ばかりが住むニュージーランドというイメージとは一味違う顔を見せてくれた。
■再会
首都ウェリントンに入った。「この街に、デイブがいるのだ…」とだんだん感慨深くなってきた。ヨーロッパのツアーで出会った彼に再会することが、この旅の大きな目的の1つである。ニュージーランドに到着したときから、何度か電話で連絡をとっていた。到着時間と場所については先に連絡していたので、バスがターミナルに入ると、彼は待っていてくれた。
「久しぶりだ!」
アテネで別れて以来、おおよそ1年半ぶりぐらいの再会。いかつい外見をしているくせに、心優しいこの男は、何も変わっていなかった。とりあえず車で彼の家へ。荷物を置いて、車でウェリントンの街を案内してもらった。海峡から風が強く吹き付ける、この街は「windy wellington」つまり、風の街と呼ばれている。丘の上の方に昇ると、風車が何本も立っていた。
国会議事堂は、「ビーハイブ(蜂の巣)」という愛称で親しまれている。日本の国会議事堂とは違い、威厳というよりも開かれた親しみやすさがある。政治がポップに感じられる。ニュージーランド人たちの国民性だろうか。
デイブの家にいる猫luxy。まだまだ赤ん坊で、噛み付いたり引っかいたりしてくるのだが、それがまたいじらしい。猫飼いたくなった。
■異国でのクリスマス
クリスマス当日は、デイブの親戚の家でパーティーという予定らしい。前夜にウェリントンを発ち、車で彼の姉の夫にあたるロスの家へと向かった。ロスの家には2人の子供がいて、兄ニコラスはいかつめだが、自分と同年代ぐらいのナイスガイ、妹のトーイはかわいらしい小学生の女の子だ。
家に着いた夜は、ロスが話相手になってくれた。お客さんに接するホストファザーという穏やかな雰囲気で、酒を飲み交わしながら、ゆっくりな英語でしゃべってくれた。翌朝、起きると、トーイはクリスマスプレゼントをくれた。メッセージカードには「遠い日本からのお客様へ」と英語で書かれていた。開けてみると、ニュージーランドの写真集で、美しい風景写真が載っている。サプライズなプレゼント。ありがとう!と何度も言って、大事に閉まった。
ロスの所有する牧場を見学させてもらった。羊はいなかったけど、牛がたくさんいた。ご飯を食べたり、みんなで遊んだりしながらそれは休暇を楽しむような感覚だった。
真夏のクリスマス、異国のクリスマス、というのは感覚的に不思議である。でも、どこか孤独を感じてしまう自分がいた。理由の第一は、英語だろう。彼らの自然な会話はまず聞き取れない。思ったことをしゃべる力もあまりない。それゆえ、自分を閉じてしまう。よくよく考えれば、コミュニケーションには語学力よりももっと大事な部分がある。話したいという気持ち、ただそれだけがあれば、コミュニケーションは取れるのだ。それを語学力のせいにして、格好つけて、いきがって…途中から、話すことから逃げている自分がいた。孤独に包まれてしまった。ロスやデイブのファミリーは、すごく温かく接してくれたのに、それに何だか応えることができなかった。本当に、自分が、小さい。
出発の日、ロスたちはバス亭までみんなで見送りに来てくれた。サヨナラを告げ、バスに1人で乗り込んで、走り出した。しばらくして、窓から外の景色を眺めていたら、涙が自然にこぼれていた。別れの悲しさもあったけど、自分の無力さに悔しくて涙が止まらなかった。
■南へ
ニュージーランドを北島と南島に隔てている海峡は、クック海峡という。高速フェリーに乗って、北側のウェリントンから南側の港町ピクトンへ。デッキの船尾に立っていると、吹き付ける風と、波しぶきが気持ちいい。自分はけっこう海峡が好きである。津軽、マラッカ、ジブラルタルなど、頭の中で地図を描きながら、海峡の役割みたいなものを想像する。ニュージーランドを発見したというクック船長。のちに自分の名がついた海峡を、彼はどんな気持ちで眺めていたのだろう。歴史の中で、海峡が果たす役割というのも非常に大きいのである。そんな硬いことを考えているうちに、ピクトンに到着した。
南島の玄関口ピクトンは小さな田舎町だ。時間的に、ここで一泊する必要があったので宿を確保。少し歩けば、ほとんど網羅してしまうが、これぐらいコンパクトだとまた安らぐ。町の背にある山がハイキングコースになっているらしいので、登ってみた。
意外と汗をかくほどのなかなかハードな山登りになったが、山頂から見下ろす小さな景色が、夕暮れ色に染まっていて美しい。周囲に人もいなかったせいか、思わず、叫んだ。自分の心の中で悶々としていた何かがあったのだろう。シャウト、シャウト、シャウト。観光客が訪れることも少なそうな、素通りしそうな小さな町。でも、無名な場所にだって、こんな素敵な景色があるんだぜ、とちょっと得した気分になる。
旅行中の日記から、以下そのまま抜粋。読み返してみても、我ながら荒削りなメモだ。
『いま俺は南島の最果てにいます。落ち込んだりしながら、旅を続け、当初の命題であった金をかけずとも長く歩き続けている限り、いろんなことがあり、刺激があって、それなりにも、それ以上にも思うことが考えることが多々ある。この道の果てに立つ俺が、”今以上”って言えるといいな。』
■クライストチャーチ
さらに南下を続けて、クライストチャーチへ到着。英語スペルが「christ+church」で、「キリスト+教会」と書く。キリスト教圏らしいネーミングだ。その名の通り、この街のシンボルである大聖堂が、中心にある。その尖塔が、天高く空に刺さるように伸びていて、街の人々のランドマークにもなっているのだろう。街全体は緑も多く、都市と自然が心地よく調和していて、おっとりとした印象を受ける。
長距離バスを下車し、ホテルを捜して歩いていると、「どこに行くんだい?」と、年老いた紳士が話しかけてきてくれた。地球の歩き方に載っているホテルの名前を伝えると、「ほう。じゃあ連れていってあげよう」と車に乗せてくれた。到着してフロントに聞くと、満室であった。老紳士は、「じゃあ、いいとこを紹介してあげるよ」と言い、近くの宿へ移動。Charlie B’s Backpackerというホステルだ。清潔で安くてとても良い宿で、ここに決める。老紳士に御礼を言って、彼は去っていった。見知らぬ人の車に乗って案内されると、たとえば東南アジアとかだと、けっこうトラブルが発生するパターンだったかもしれないが、老紳士は、単純な親切心で、案内してくれたようだった。ニュージーランドは、どうも旅人には優しい国らしい。
クライストチャーチは、街の中に公園があるような、公園の中に街があるような、そんなのんびりした街である。ニュージーランドの中で、第2の人口を誇る、南島最大の都市だけど、混雑してるような印象もない。落ち着きのある、洗練された紳士のような街だ。
■写真で触れる大ニュージーランドの大自然編
テカポという小さな小さな湖畔の町。「よき羊飼いの教会」という名の教会。
こんな場所で結婚式挙げたら、趣き深いんだろうなぁと思った。
テカポからさらに南下し、ニュージーランドで最も高い山「マウント・クック」を目指す。
よく晴れた空。真っ白に塗られた雪。綺麗に映えるさわやかなブルー。
■年末カウントダウン
2004年の年末が近づくにつれ、「どこで新年を迎えるか」について考えていた私は、「カウントダウンはクイーンズタウンがいいらしい」という情報を得て、大晦日に合わせるように、南部都市クイーンズタウンを目指した。一方「宿がどこも埋まっている」という情報もあり、少し焦り始めた。3日前から予約の電話をクイーンズタウンの宿に片っ端から掛け始めたが、「Sorry」「Sorry」「Full」「Sorry」と10軒連続でお断りされてしまい、「マズイ、新年早々から野宿になるのか。。。」と本気でテンパってしまった。(結局、宿はギリギリ何とか1件見つかった)
クイーンズタウンは、夜10時にようやく陽が暮れようとしていた。町中がニューイヤーに沸こうとしていて、街にいるほとんど全員が広場に集まっているような気がした。ステージでは、ロックバンドが演奏して歌い、そこで聞いた「Ob-La-Di, Ob-La-Da」はとても印象的で、感動した。
10、9、8、、いよいよカウントダウン。走馬灯のように脳裏によぎるこの1年。地理ゼミに入って、ホッケー部の公式戦に初めて出場して、リーグ優勝して、シネマズのバイトを辞めて、高校時代のバンドが一夜限りの復活ライブをして、記憶は巡る。いろんなことがあった。3、2、1、happy new yearが響く。海外で迎える初めての年越しとなった。
■元日のバンジージャンプ
2005年を迎えた1月1日。この記念すべき日に合わせて、やりたいことがあった。バンジージャンプだ。
「女王にふさわしい街」という美しい名を持つ、ここクイーンズタウンは、世界に先駆けたバンジージャンプ発祥の地でもあるらしい。2年前、グアムでスカイダイビングは経験したけれど、バンジーは人生で初めてだ。スカイダイブよりも、バンジーの方が恐怖は勝る。しかし発祥の地と言われれば、ここで挑戦してみたい。「事故死しても責任とらない」という契約書にサインをし、すぐ準備。橋の上に立って、見下ろせば、47メートルの高さを感じる。
断崖絶壁に挟まれた川面に向かって、飛び込むのだ。補助スタッフは、日本語で「ミズ?ミズー??」と嬉しそうに言う。紐の長さを調整すれば、顔が水面に着くようにも調整できるがどうだい、という意味だ。さすがに「ノー!!」と返答し、いよいよスタンバイ。スタッフは、きわめて事務的に「3、2、1、GO!」と淡々と言い、躊躇うことなく自分は、この1年をエキサイトにすべく、飛び込んでいった。バンジーは、一番下まで行くと、再び跳ね上がって、2回目の落下が始まる。この跳ね上がりが結構こわい。なかなか爽快な良い経験となった。
今回は高さ47メートルだったが、のちに、現地で知り合った日本人旅行者は134メートルのバンジーに挑戦したらしい。彼いわく、134メートルを落下していく途中で、「まだ終わらないのか」と3回思うらしい。それはそれで、いつかやってみたい。
■寄り道、香港
キャセイパシフィック航空は香港での乗り継ぎだったため、オークランドからの帰り便で途中香港へ立ち寄った。初めての香港だ。夜10時すぎに到着したため、そのまま空港のどこかで、夜が明けるまで待つかどうかを迷った。決めた宿もないし、夜の街に出ることにビビってしまい、しばらく躊躇していた。でも、段々とこのまま安全な場所にとどまることがもったいないような気もしてきた。
思い切って、街へ出てみる。
エアポートバスに乗り、街の中心部っぽいところで降りると、すぐに宿の勧誘人が近づいてきた。あやしいと思いつつも、頭にふと浮かんだことは2つあった。1つは「深夜特急」の黄金宮殿の話。もう一つは、去年のベトナムの旅で出会った旅人のこと。彼はこの手の勧誘人ともオープンに対話する人だった。ダメで元々、勧誘人についていってみることにした。
その一歩は、また自分の世界を広げてくれた。
怪しげな高層雑居ビルのエレベータに乗り、23階へ。大げさな鉄格子の扉の先にあったのは、ゲストハウスだった。その部屋を見て、すぐに気に入った。部屋は意外とキレイな内装とベッドがあるシンプルな1人部屋だったけど、エアコンもあるし、ホットシャワーも出る。そうか、これがきっと沢木耕太郎氏が出会った「黄金宮殿」に違いない。後日調べてみると、深夜特急の「チョンギン・マンション」ではなく、その隣にある「ミラド・マンション」という名前だったけれど、似たより寄ったり、まぁ同じようなものだろう。その宿を拠点に決めたら、旅のワクワクはまた息を吹き返した。
香港の街歩き。
大量のでかい看板が道路にはみ出る大通りは、まさに香港イメージどおりだ。地元の香港人が集まる屋台でご飯を食べる。スターフェリーに乗って、対岸の香港島へいく。泥棒市のような露天売では毛沢東の本がたくさん並べられていた。夜のビクトリアピークに登り、そこから100万ドルの夜景を眺める。
翌日、郊外電車に乗って、深圳まで足を伸ばしてみた。香港は中国になっているけれど、本土と香港のあいだには、イミグレーションがあり、パスポートにスタンプが押される。中国本土にも足を踏み入れることができた。カラフルな香港に比べて、深圳はモノトーンという色合いな気がして、別の国のよううな印象を受けた。道を歩いていると、靴磨きのおじさんが声をかけてくるので、いらないよと断る。すると、私の靴(スニーカーなのに)にクリームを無理やり付けて、磨いてこようとした。急いで逃げた。
香港の街角で、CDショップを見つけ、そこでは日本のポップ音楽のCDも取り扱っていた。今回の旅は、自分の中で音楽を遮断しようと思い、MDウォークマンを持ってきていなかった。だから3週間以上の旅の中で、日本の音楽が妙に恋しくなっていた。そのお店の視聴コーナーで、ORANGE RANGEの「花」を何度も聞いた。この曲を聞くと、今でも香港の記憶が蘇る。香港での寄り道は、たった二泊だったけれど、この長い旅にとってアジアの熱を感じる刺激的な時間であった。
■旅のあとがき
ニュージーランドに対する爽やかなイメージは、今も心に残っている。欧州で出会った友人に会いにいゆく。そんな単純かつ大切な動機で、旅立った2004年の冬。初めての南半球では、南十字星を見てみたいという思いもあった。実際、見上げた夜空には、たしかに南十字星が輝いていた。
この旅の記憶は、なんとなく薄くて、ぼんやりとしているのが正直なところだ。3週間という日程は、長いようで短いようで、なんだか中途半端だ。その短期間で、ニュージーランドを一周しようとしたので、一つの場所に長く留まることなく、バス移動している時間が多かったように思える。そして、誰かと関わるよりも、孤独な時間が長く、心の殻の中に閉じこもっていることが多かった。
思い出すと、なんとなく苦さを感じた。「旅の失敗」ということなのだろうか。帰国してから、しばらくそんなことを考えることも多かった。実際、この旅行記は、書く情熱が高まらず、執筆が停滞していた。記憶の奥深くに長く眠っていた。
そして、20年ぶりに紐解いて、改めて言語化を試みたのが、この旅行記である。記憶の奥深くに眠っていたニュージーランドの旅は、長い長い時間を経て、しっかりと熟成されていたことに気づいた。
旅では、いろんな街を歩き、いろんな経験をする。良かったことも、残念なことも、その全てをぐぅぅって呑みこんで、噛み砕いて、そしてまた新しい何かを求め、旅は続いていく。そんなことを繰り返しながら、ふとした瞬間に、ささやかな意味を発見したりする。そう、旅に失敗なんてものはないと今では思う。見てきたものすべてが、あの南十字星のように、ささやかに、確かに輝いている。
【完】