2004年、ベトナムの旅
旅程:2004年3月
■旅のプロローグ
小林紀晴著「アジアン・ジャパニーズ」にこんな言葉があった。『人は会うべき時に、会うべき場所で、会うべき人に会わなくてはならない』。そして、『どんな出会いにだって、それぞれの意味が必ずある』と。
旅先で出会う人々。それは、普段の日常の中にいる限り、出会うことのなかった人々だ。たまたまの時間と場所が重なったとき、人と人は出会う。それは偶然かもしれないし、不思議な何かの力が働いた結果なのかもしれない。客観的に見れば、偶然だけど、それを必然や運命と呼ぶこともできる。旅先での出会いとは「ひとつの運命である」と私は思いたい。
中華航空が、ホーチミン・シティに着陸した。ムワっとする熱気と、空港出口の向こう側でベトナム人たちが観光客の到来を待ちかまえているオーラに圧倒された私は、1人の日本人旅行者に話しかけられた。「タクシー割り勘して、一緒に市内へ行きませんか?」彼がタケシさん(仮名)だ。この出会いは、その後の私の旅スタイルに大きな影響を与えることになる。わずか一週間だったけれど、共に旅をした時間の中で、私は本当に多くのことを学んだ。バックパッカースタイルで、英語も堪能で、現地の人々とのコミュニケーションも上手くて、自分自身の信念を貫く姿に、憧れを感じた。「ああいう旅人になりてぇなぁ」という目標になった。
■クチ・トンネル
ベトナム戦争のとき、南ベトナムの首都サイゴンを攻撃するゲリラの拠点となっていたのが、サイゴンの北にあるクチという町だ。ここには果てしない地下迷宮ともいえる大トンネルがあった。それが「クチ・トンネル」で、現在は観光地として、このトンネルの中に入ることができる。そのツアーに参加した。
バスで現地に到着すると、まずは案内ビデオを見た。ベトナム側の視点で制作されていて、反米ナショナリズムの色があり、ゲリラ的に戦ったベトナムの強さというものを感じる内容だった。ビデオの横にはトンネルの小さな模型と、空から見たクチ周辺の地図があった。模型を見ると、トンネルはアリの巣のように広がっている。狭い通路と所々にある居住空間は、地下三階まで掘り下げられ、随所に罠もあった。ここに潜んだゲリラたちは、トンネル内部でも戦うつもりでいたらしい。
外に出て、森の中に入っていく。熱帯特有の森の不気味さが感じられる。ふと自分を当時のアメリカ兵に置き換えてみる。視界の悪い森の中から、突然襲ってくるベトナム兵がいて、ところどころに罠がある…。当時のアメリカ兵は言った。「ベトコンはどこにも見えないが、どこにでもいる。」と。この森を歩いていると、その恐怖がわが身で実感される。
とある場所で立ち止まった。ガイドが地面を指差して言う。「ここにトンネルの入り口があります」。何も見えない。ガイドが地面の葉っぱを払いのけると、微かに長方形の切れ目みたいな何かが見えた。それはフタのようになっていて、持ち上げると、トンネルの入り口になった。人ひとりが通れるくらいの本当に小さな入り口だ。
「誰か、入りたい人はいるかい?」ガイドがいう。興味があった私は一番に手を挙げた。スポッと腰までは入ったが、肩が通らないような感じがした。この入り口は当時と同じ大きさのものだが、模型であった。横にいた、米国人おじいちゃんのグラントに「入ってみたら?」と言うと、グラントは自分の大きな腹をタプタプしながら「ムリだよ!」と笑いながら言った。それぐらいグラントのお腹は大きく、トンネルの入り口は小さい。
さらに森の奥へと進んでいく。途中でゲリラが使っていたいくつかのトラップが展示されていた。仕組みは単純で原始的だが、とても効果的で実用的なものばかりだと思った。現代兵器を備えたアメリカ軍に対抗するために、当時のベトナム人たちは最大限に頭を使ったのだろう。
射撃場に出た。ここでは当時の銃で実弾を撃つことができる。10ドルで10発。いい機会なので挑戦。実弾も銃も初めての体験だ。撃ったときに右肩に感じる衝撃が強く、発砲音も轟かしい。どれも当たらず、なかなか難しかった。
そして、いよいよトンネルの内部に入る。中は暗くて狭く、蒸し返すような暑さだ。手と膝をつき、赤ん坊がハイハイするスタイルで、奥へ奥へと進んでいく。観光客用に少し拡張しているらしいが、それでも狭い。戦時中の凄まじさを想像し、こんなところで戦っていたか…と感心もしてしまう。汗をダラダラかきながら、想像よりも長いトンネルを進んだ。ようやく出口から外に抜け出たとき、外の風が清々しくて気持ちがよかった。
■メコン川の夕暮れ
悠久なる大河メコン。その源流はチベット高原を発し、ラオス、ミャンマー、タイ、カンボジア、そしてベトナムなどさまざま国々を通過しながら、南シナ海へとつながる。その出口がメコンデルタだ。このメコンデルタ地帯には、ベトナム人たちの自然な暮らしがある。そこを訪れるツアーに参加した。ホーチミンを朝出発し、バスは南へ。
メコン川に到着すると、そこから高速ボートに乗り込む。風に吹かれながら、ぬくぬくと育つマングローブの森はどこまでも広がっていた。水上に立てられた木造の家がいくつも並んでいて、そこにはリアルな生活があった。メコンという川は、彼らにとって不可分な存在であり、生命線であるのだ。そう思うと、この濁りに濁った緑色の川も、偉大な存在に見えてくる。
ツアーに参加していたスウェーデン人家族とランチで同席になった。スウェーデン語を教えてもらい、仲良くなることができた。若い人たちは普通に英語も話していたが、老夫婦は英語を話さないようだった。そこで教えてもらったばかりのスウェーデン語で話しかけてみたら、老夫婦は素敵な笑顔を見せてくれた。言葉の力ってすごい。
■カントーにて
ベトナムへ出発する前、友人から「忘れないよ!ヴェトナム」という文庫本をもらって読んだ。喧騒とした大都市ホーチミンに嫌気がしたランディさんは、田舎町であるカントーへ移動し、そこでベトナムの面白さを発見した。今回のメコンデルタツアーでも、このカントーに泊まることになる。
川沿いに広がる公園を散歩していると、「1アワー、2ダラー」と声を掛けられる。ボートのお誘いだ。ランディさんも、ボートの悠久な時間がとても気に入ったらしく、毎日、夕暮れどきに乗っていたらしい。私も、ちょうど夕暮れの時間を狙って、公園に行くと、すぐ話しかけられた。ボート漕ぎは若いお姉さんだ。
ここで料金交渉開始。コツは米ドルではなく、現地通貨”ドン”で交渉することだ。2ドルだと約3万ドンなので、ここは1万ドンを目標値に設定する。紙にお互い数字を書き合っていると、周りにどんどんギャラリーが集まってくる。彼女は2万ドンを譲らなかったが、結局1万5000ドンで交渉成立。日本人の感覚だと30~40円程度の違いだけれど、彼らにしてみればその差は大きいはずだ。それでも私が値段交渉をする理由は、金銭面よりも、人と関わり合うことを旅の中で楽しみたいからだと思う。
ボートに乗る。川の細い支流に入っていき、まるでジャングル・クルーズのようだ。ボートは岸辺にガツガツぶつかりながら、前へ進んでいく。立ち並ぶ家々は、家の中が丸見えで、そこに暮らす人々の姿と生活があった。お金が十分にあることが幸せなのかどうかはよく分からない。けれど、目が合い、笑顔を見せてくれた彼らの姿を見ていると、きっとこんな風に感じていられることが、幸せの一つのカタチなのかもと思った。おおよそ1時間のクルーズで、ボート乗り場に戻る。最終的に、15000ドンに5000ドンのチップをプラスして、彼女に手を振った。
■そして、ホーチミン散策
ホーチミン市内を歩き回ろうと意気込んだものの、その暑さにヘロヘロになり、旧大統領官邸「統一会堂」を見学したところで、散歩は諦めた。バイクタクシーを使うことにする。
バイクタクシーのドライバーたちは、サイン帳や写真アルバムを見せてくる。そこには、前に利用した日本人観光客が直筆で「このドライバーさんは安心ですよ」と日本語メッセージが書いてあったり、一緒にピースしている写真が載ってたりする。商売うまいなと思った。バイタクぼったくりの不安を拭い去るには良い方法だ。
今回は、カーさんというドライバーのバイクに乗せてもらうことにした。日本語を勉強中らしい。熱い日差しの下、バイクの後部座席で感じる風はとても気持ちがよかった。カーさんもなかなか良い人柄で、話していて面白かった。食堂でフォーや春巻きを食べたり、休憩中にコーラを飲んだりと、一緒に飲み食いするときは、こちらでご馳走した。
「戦争証跡博物館」へと足を運んだ。戦争とは、ベトナム戦争のことだ。戦車や不発弾の他、枯葉剤による奇形児のホルモン漬けなど、強烈な印象の展示品の数々を見た。アメリカとは、戦争とは、科学とは、そして、今生きている自分の存在とは…。展示品を引き金に、自分の頭が難しいことを考え始める。博物館を出ると、頭の中でMr.Childrenの「タガタメ」という曲が何度も繰り返される。
>子供らを被害者に加害者にもせずに この街で暮らすため まず何をすべきだろう
>タガタメダ タガタメダ タガタメ タタカッタ?
■夜の散歩
夜の散歩をしていると、道端でベトナム人たちがよく話しかけてくる。「オンナ、スリーダラー」というのが一番多かった。××●や◇×●×などの日本語も聞こえてくる。こんなことをきっかけに現地の人たちと話ができるのが私は好きだ。こちらがノーとはっきり言えば、彼らも強引に連れていくつもりもなく、そこから「ところでベトナムはどうだ?」みたいに会話が広がっていく。カタコトな会話をして、肩を叩き合えば、お互いに笑顔もこぼれてくる。結局、人と人のふれあいなのだ。そんなことをしていると、たまに「あの女に付いていったら、男が出てきて大金を払わされるぞ」とか忠告もくれる。真偽はともかくとして、ときに良い情報も入ってくる。
「シクロ」とは自転車のタクシーだ。散歩中に、よく見かける若い兄ちゃんがいて、自然と互いに顔を覚えてきた。年齢も近いようで、なんか親近感を持った。「乗ってきなよー」と彼が言う。これも偶然の縁かと思い、宿へ戻るとき「いくらだい?」と聞いてみる。すると彼は「タダでいいよ!」と怪しいことを言ってくる。それは困る、ちゃんと値段を言ってくれなくちゃ、そう言うと、「up to you!(あなた次第だ!)」となかなか男気なことを言うので、面白そうだと思い、お願いすることにした。
フォム・グーラオ通りまで帰る道。彼といろいろと話をしていたら、すぐに宿に到着した。相場もよく分からなかったので、10000ドン渡すことにした。彼はとても喜んでいたので、だいぶ多かったかもしれない。金額なんて結局、払いたい気持ち分だけ払えばいいのだとふと思った。そこにボッタクリも何もない。そんなバランス感覚が少しずつ自分の中でうまく育っているような気がした。このベトナムの旅で、私は多くのことを学び、実践し、そして成長しているような感覚があった。
■台湾へ寄り道
ベトナムからの帰路、飛行機の乗り継ぎが台北だったので、一泊することにした。「ストップ・オーバー」は初めての経験だ。なんとなくお得な感じがする。寄り道の目的は「台湾の食」にありつくこと。一晩で夜市を歩き回り、食べるだけ食べて満足。相変わらず、何食べても美味しくて、すぐお腹いっぱいになってしまう。台北の夜は最高だ。翌日には龍山寺へも立ち寄り、昼過ぎには、すぐに出発の時刻となった。
■旅のあとがき
前述の「忘れないよ!ヴェトナム」という本は、この旅のバイブル的な存在であった。出発前に読み終えたとき、これから行くベトナムという国は必ずしもいいことばかりではない、という覚悟を持つことができた。旅行中も、動揺する場面に遭遇したとき、余裕を与えてくれた。そして、その全てを受け入れてベトナムという国が好きになった。この本を読んでいなかったら、ベトナムとは「ケンカ別れ」してしまっていたかもしれない。
旅は常に偶然に偶然を重ねていく。タケシさんとの出会いは自分にとってはとても大きかった。クチトンネルツアーで出会った、さんぺーさんやハットリさんとの思い出も深いものになっている。さんぺーさんとは、後に新横浜で再会して酒を飲み交わす機会があった。日本での再会は嬉しい。人との交わりは、より一層、旅を豊かなものに変えてくれる。
以下、旅中に残した日記の文章をそのまま抜粋。
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今回の旅で得たもの。全くの無計画でも何とかなるということ。現地の人々との触れ合い方。旅人同士の交流。英語の必要さ。見慣れぬモノばかりで、自分の悩みとかがちっぽけに感じられて、また世界は広がった。いいこともたくさんあった。嫌なこともたくさんあった。でも旅は51パーセントのいい思い出があれば、勝ちなんだよな、きっと。テンパリながら、焦りながら、でもみんな笑うし、楽しいし、そういったことは人間みんな共通で。僕はまだまだで、これからで、でもまた1つ成長できた。知らないコトを知ったコト。それが大きな財産となって、次のステップへ。さぁ次の扉をノックしよう。
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