2002マレーシア

2002年、マレーシアの旅

旅程:2002年7月

■旅のはじまり

これまでのいくつか旅した中で、「自分の人生を変えた旅」というのは、たった一つしかないかもしれない。

ときは2002年6月。その頃の自分は、休学していた大学を中途退学することにし、映画館でバイトしながらも、人生の方向が見えなくなり、情緒不安定な精神状態になっていた。

数ヶ月前に、バイトの先輩から、「テーマがあるようなツアーに参加してみるといい」と言われたことがあった。「いったい何のことやら…?」とそのときは思っていた。

たまたまインターネットで「国際交流」とか単語を検索していたら、横浜国際交流協会のホームページを見つけた。

”「体験マレーシア!植林&国際交流の旅」メンバー募集”

これは、あの先輩の話のようなことなのでは。そこから応募して、このツアーに参加することになった。マレーシアに行くのは夏である。

出発前には「事前研修」というものがあった。そんな堅苦しい内容ではないのだが、参加者の顔合わせや、ツアーの趣旨の説明などがあった。当初は面倒ではあったが、いろんな意味で不安を解消し、意義のある内容であった。

参加者は全部で20人ぐらい。高校生と大学生と社会人がそれぞれ3分の1ずつぐらい。年齢幅も15~28歳と全体的に若い。男女比率は1:5ぐらい。「国際」と名のつくものは基本的に女性が多い。

そんな顔ぶれで、こういうモノに参加する人々は基本的に協調性あり積極性あり行動的であるので、みんな初対面ながらすぐに打ち解けることができて、マレーシアに出発する前から飲みに行ったりなど親睦を深めた。

今回のツアーは「国際交流協会」が企画し、「横浜市」も補助金を出し、横浜とマレーシアの「交流の一役を担う」など、単なる遊びのエンターテイメント旅行とは違う。しかしながら、そんな背筋を伸ばした堅苦しい旅ではない。素晴らしい仲間たちとともに、普通の観光では味わえない経験をする旅であったのである。

■旅立つ

成田を発ったマレーシア航空は、マレーシアの首都クアラルンプールへ。地図でいうとマレー半島に入る。そこから飛行機を乗り換えて、東にあるボルネオ島に向かう。

今回の目的地は、ボルネオ島にあるサラワク州という場所の州都クチンという街である。

マレーシア航空はかなり快適で、各々の席にテレビが付いており、映画やゲームも楽しめる。

「え?M高校なの?」

隣に座っていたツアーメンバーは高校生。参加者はだいたい横浜の人々なのだが、横浜も広い。しかし彼女は横浜の中でも、私の地元に近い場所に住んでいるらしい。

「3年生かぁ。S山とか分かる?」

「きゃー!なんで知ってるんですか!?」

私のバイト先の後輩とどうやら友達だったらしい。世間は狭い。

クチンに到着したのは夜10時過ぎぐらい。遅い時間にも関わらず、サラワク州の関係者の方々は我々を横断幕で出迎えてくれた。

空港では預け入れ荷物がベルトコンベアで出てくる。

S田さん「荷物が出てこないんですけど・・・」

トラブル発生。

国際交流協会の方で、今回のツアーの担当ということでいわばコンダクター的な役割のM橋さんが空港に問い合わせたりするも、発見されず。とりあえず見つかり次第、ホテルへ送ってもらえることになった。

夜も遅いのでホテルへ向かう。いろいろ身辺整理し、ようやく眠りにつけたのが2時。

M橋さん「明日は8時集合なので♪」

■ホームステイ

プログラムの一発目は「ホームステイ」。マレーシア人の家に一泊して、生のマレーシア文化に触れる。僕は相方の高校生の男の子(以下、相方)と共に行動。ホストファミリーは中華系マレーシア人。ファミリーと言っても、30代ぐらいの男性2人だけで、のちのち話を聞くと兄弟であるらしい。とても似ていない。集合場所にお迎えに来てくれて、車で出発。

クチンという街には猫博物館がある。そもそも「クチン」という言葉がマレー語で「猫」を意味するらしい。多くの家庭で猫が飼われていて、街中にも「猫の銅像」があるぐらいに、人々は猫が大好きなのである。猫を飼うと幸せになれる。器に水を張って猫を浸すと、恵みの雨が降る(猫には迷惑だな)。そんな迷信もあったりして、マレーシア社会と猫の関係についてはとても興味深いものがある。

夜はちょうど街でフェスティバルがあるというので、出かけた。地元の人々が多く集まっていて、大音量で音楽が流れ、屋台もたくさん出ていた。

ホストファミリーの友人の女の人がここで合流。もともとクアラルンプールで仕事をしているのだが、ちょうど休みで帰ってきたらしい。どういう関係なのだろうと思っていたら、どうやらお兄さんの昔の奥さんとか何とか。

彼ら3人が久しぶりに会ったせいか、とても会話が弾んでしまい、とんでもないスピードの英語が始まってしまったため、会話がほとんど聞き取れなくなってしまった。男4人のグループに、女性1人が入れば、そうなるものだ。

フェスティバルが終わって、家に帰ると、僕と相方は2階の部屋にこもり、疲れもあって、早い時間に眠りについてしまった。なんか、うちらいつの間にか蚊帳の外になってしまったな…。正直そんなことを考えて、ちょっぴり不快になってしまったかもしれない。ホストファミリーの事情もあるし、自分としても英語があまりできないとかの負い目もあったし、英語できないなりに何とか積極的にコミュニケーションする姿勢が欠けていたのも、よくなかったなぁと思った。

とか、まぁ感情的にヘコんだりもしたが、怒りというわけでもなく、むしろ冷静になって考えてみれば、ホームステイというのは、僕らは「お客様」ではなく「家族の一員」という方が正確なのである。黙っていても向こうが何かを与えてくれる、そんな一方的な関係とは違う。こちらも自分からアプローチしていかなくてはいけないのだ。決して気持ちのいい後味ではなかったが、そう考えると、新たな価値観の発見があって勉強になったなぁと今は思っている。

翌朝、ホストファザーに起こされて、もう出発という話。あ、そういや何時に出るって聞いてなかったなぁ。

車で送ってもらい、みんなの集合場所である日本食レストランに到着したのは僕らが一番だった。しばらくすると、各家庭に散らばっていたメンバーが徐々に戻ってきた。たった一日バラバラだっただけだが、なんか久しぶりな気がして嬉しかった。

両手いっぱいにお土産を抱えてきた人がいたり、ホストファミリーと抱き合って別れを惜しんでる人もいたり、それぞれホームスティを楽しんできんだなぁと思った。みんな集まってくると、「どうだった?どうだった?」という話になる。

のちのち写真とか見せてもらって思ったりもしたが、だいたいマレー系の家庭、中華系の家庭、イヴァン族の家庭と3種類ぐらいに分かれる。最後のイヴァン族というのは、サラワクに住む原住民族で、かつては「首狩族」(きゃー)と言われていたが、現代では穏やかな人々である。やはり家族がたくさんいる家、特に子供がいる家に行った人は楽しかったという感想が多かった。

その中でも、もう笑ってくれ的なエピソードを残してくれたのは、数少ない男性陣の最年長のF澤さん。最年長って言っても25歳ぐらい。男性陣は全部で5人だったので、F澤さんだけは1人でホームスティに行くことになった。

そしてこれまた偶然であるが妙な組み合わせになってしまったのは、ホストファミリーも男性1人だったということである。別に男性1人だからホストファミリーじゃねーだろという話ではなく、実質F澤さんとホストファザーのマンツーであったということである。

F澤さん「いやー、2人っきりだとやっぱ会話続かないよ」

気持ちはとてもよく分かる。しかし話はそこで終わらない。もう寝るぐらいの時間、部屋に戻りベットで横になっているF澤さんのところへ、ホストファザーが入ってきた。

「疲れた?マッサージしてあげるよ」

疲れていたF澤さんも、まぁやってくれるなら…ということでやってもらっていたのだが、徐々にローションなどが出てきて、ん?展開がちょっとおかしいぞ、と感じたらしい。そのF澤さんの戸惑いを見て、ホストファザーもおかしいと感じたらしい。

ホストファザー「Are you gay?」

F澤さん「ノォォォォォオオオオオオ!!」

という話。まぁ別に襲われたとかではないのだが、そんなことがあったらしい。ホストファザーさんも勘違いして申し訳なかったという話であったし、Fさんも安眠したそうだ。F澤さん的にも、笑い話にしてくれと言っていたので、そんな深刻には捉えていないが、大変だったなぁと同情はした。

それとこんなエピソードを持ち出してみたが、決してマレーシアとはそういう人々の社会であると言いたいわけではないし、むしろかなり特殊なケースであろう。

■植林

ツアーの名称『体験マレーシア!植林&国際交流』のとおり、プログラムのメインの一つは「植林」である。熱帯雨林が豊富なマレーシアでも、近年の伐採で、森林の減少が甚だしく進んでいるらしい。「地球上の熱帯林は、五秒毎に横浜スタジアム一つ分に相当する面積が減少している」と、手元の資料にはある。豊かな熱帯林を守るための森林保全プロジェクトを行っているのが、サラワク州の森林局というところだ。今回は、そこを訪問する。

この旅で、欠かせない人物、マダムS。クチンに住む日本人で、現地でのさまざまな調整を担当してくれている。マダムSの経歴は、濃い。若い頃に日本で交際していたマレーシア人と結婚するために、周囲の反対を押し切って「かけおち」的に単身マレーシアへ渡る。今では旅行会社の社長、日本料理屋の社長、スナックのママという様々な顔を持つ。サラワク州の政府高官、実業界の主要人物にも広く顔が知られており、通称「サラワクの母」と呼ばれている。マダムSが放つ空気は確かに「母」である。

森林局を訪問した我々は、立派な会議室に通されて、そこで森林局の方々から「熱帯林の現状」や「森林保全プロジェクト」などの話を聞いた。英語が分からない、不甲斐無い我々のために、マダムSは同時通訳をしてくれた。そのおかげで話の内容は大体理解することができた。

夕方からホテルに戻り、フリータイムになったので、前章で登場したF澤さんと、同部屋の高校生の相方と3人でクチンの街を散歩してみた。ツアー中は大体この男3人でつるんでいる。デパートに入って涼み、ついでに部屋で飲む用のビールを買う。街の中心には広大な川が流れていて、その川岸が公園になっている。陽が暮れたときのオレンジ色の空と川面に映る夕陽のゆらゆらが、なんともいえない美しさを放っていた。

手元の日記メモには、「夕飯はタイ風しゃぶしゃぶ。おいしかった」とある。食後、10人ほど集まり、夜の公園で「ダンス」の練習をした。ダンスというのは、後々に出てくる話だが、現地の大学を訪問するときに、マレーシアの大学生との交流の中で、日本文化を紹介するというプログラムのためのもの。詳細は追々として、とりあえず練習が必要なので夜の公園に集まっている。

ラジカセで音楽を流しながら、踊っている日本人の集団。それは何だか宗教的な妖しさを放っており、通りかかるマレーシア人たちは「なんだ?なんだ?」と集まってきた。それでも踊り続ける我々は負けない。

練習も終わり、「飲みいくかー!!」という話になり、若者が集まってそうなバーに入る。しかし店内は、音楽がガンガンというよりむしろドガーン!ドガーン!と爆音が流れていて、隣に座っているメンバーと会話すらできないぐらいだった。とメンバー全員が同じことを感じたらしく、一杯飲んだだけで店を後にした。こんな経験もまた旅の醍醐味である。

翌日。バスが山奥に入ったとき、スコールが激しく降り注いだ。マレーシアの天気は変わりやすい。民族衣装を羽織った人々が、歓迎の酒を立派な杯に注いでくれて、それを一気に飲み干す。なんともいえない味だが、グワッとくる強さ。

民族舞踊のようなものをステージで見せてくれて、F澤さんや他の女性数名にお呼びがかかり、スローなテンポの舞いを見よう見まねで一緒にやっていた光景がなんとも面白かった。

そのあと、いよいよ植林体験へ。

苗木を埋めるために地面に穴を開けた箇所が20ほどあって、そこに苗木をどんどん埋めていく。2人1組での作業だが、このとき私のペアだった相手は、半年後、大学で再会し、奇しくも同じ部活の先輩後輩という間柄となる。人生の縁とは不思議なものだ。

植林自体は形式的なもので、雨が強くなってきたこともあってか、一つ一つ丁寧に思いを込めてやるというより、早く終わらせるためにパッパと作業を片付ける感じであった。それでも自分が植えたところには、「MOTOKI SATO」というプレートが立てられた。

「何年後かに、この場所に来れますかね?」と聞いてみたところ、「難しいっぽいわね」とM橋さんが地元の担当者に聞いてくれた。ここは州政府の管轄の土地で、いわば”工事現場”のような場所で、個人で勝手に立ち入りできる場所ではない、ということらしい。

ここで植林作業に従事するマレーシアの人々は、男気あふれる工事現場のおっちゃん、みたいなカンジで、カメラを向けるととても気持ちのよい笑顔を見せてくれた。

■国際交流

「青少年交流」というプログラム。その名の通り、日本の若者とマレーシアの若者が国際交流を楽しみ、相互理解を促進し、さらなる友好を深める、というもので、書くと堅苦しいが、とりあえず私はこういうものが好きだ。

ここで我々メンバーは、高校生の「ヤングチーム」と、大学生以上の「アダルトチーム」の2グループに分かれる。ヤングチームは現地の高校へ。私はアダルトチームに入り、現地の大学へ行く。サラワク大学というところだ。英語で、University Malaysia Sarawak。頭文字のUniとMaとSから、『ユニマス(Unimas)』と呼ばれる。以下ユニマス。

ユニマスに到着すると、まずその広大なキャンパスに驚かされた。建物も新しく、学生の数も多いらしい。今回はアザハ先生という方のゼミの学生たちと、交流することになっている。人数は15人ほど。アザハ先生は中年の男性ながらベビーフェイスで穏健なオーラをもった、人柄の良い素晴らしい先生だ。

ここでは「日本の文化を紹介する」というミッションがある。日本での事前研修の中で、話し合いがあったとき、(1)日本の昔話を紹介する、(2)日本の若者のあいだで流行しているJポップを紹介する、という2つの案に決まっていた。

(1)は、日本人なら誰もが知っているポピュラーな昔話なら「桃太郎」ということで、「桃太郎」の紙芝居を英語でやる。おまけに「ももたろさん」の曲も国境を越えて一緒に歌えばいい。

(2)は、明るい!楽しい!みんなで踊れる!といったあたりから、V6の「WAになっておどろう」と決まった。こっちも国境を越えて一緒に踊ればいい。

まず、桃太郎の紙芝居。このナレーション担当は私が引き受けた。「Peach Boy」と英訳されたストーリーの原稿を、紙芝居をめくりながら読み上げていく。細かい話はほとんど割愛して、桃から生まれた⇒鬼退治に出かけた⇒犬に会って仲間にした・・・というようなほとんど外郭だけで鬼をやっつけた。

そのあと、ローマ字で「ももたろさん ももたろさん おこしにつけたきびだんご~」と書いた歌詞カードをみんなに配り、歌う。先に日本人チームが紹介する形で歌い、そのあとでユニマスの学生たちも一緒に歌ってくれた。この歌詞カードのアイデアがよかったようだ。

ユニマスの学生たちからは、「Peach Boyのお話は知らなかったよ!」「日本にこんな話があるんだね!」「ありがとう!」という言葉をもらった。たしかに外国人が桃太郎を知る機会なんて滅多にないかもしれない。

続いてJ-POP。我々メンバーの中に、小学校や幼稚園の先生がいたので、その経験とプロ魂を存分に発揮し、誰でも簡単にできる振り付けを作ってくれた。これが前述の「夜の公園で練習したダンス」である。

教室いっぱいに一つの輪になった我々は、日本人とユニマスの学生たちが混ざり合う形で、曲に合わせて踊った。これも好評だった。親しみやすいポップな曲調と簡単な振り付けのおかげで、大学生たちがみんな子供に戻ったような気分で楽しんでいた。私の隣りにいた、チャドルをかぶった女性も、素敵な笑顔を見せてくれた。人と人はきっと国境とか宗教とかを超えたところで、こうやって楽しさを共有できる。そんなことを漠然と思った。

このあと、お茶とお菓子を食べながら交流と会話を楽しんだ。このとき話した年齢の近いホーくんとは帰国後に何度か手紙でやりあうほどの仲になった。

■国立公園へ

バコ国立公園へ。その面積は約2700haとあるから、横浜市都筑区の区面積ほどで膨大だ。自然保護のため、許可なしで公園内には入れないらしい。

クチン市内のホテルに滞在する我々は、1泊2日の荷物を持ち、バコへと向かう。陸路では中に入れず、高速ボートに乗って海岸線を回り、キャンプ基地へと入る。

ボート乗り場では、何と驚いたことに、先日のユニマスの大学生たちが待っていた。もともと一緒に行く予定ではなかったが、お互いの交流をもっと深めようということで、急にこのような形になったらしい。嬉しい話だ。

波風を切って、高速ボートは大海原をゆく。

キャンプ基地に到着。キャンプ基地は、この公園の中で唯一人の手が加えられたような感じで、ロッジやキャンプ本部がコンパクトにまとまっている。我々の宿泊地もここになる。

貴重な自然が多く残るこの公園で、トレッキング。大自然の中を歩きながら出会う植物の数々に清清しい気分を感じた。

ロッジはビーチのすぐそばにある。エメラルドグリーンに輝き、温泉のように生暖かい海は、それはそれは心地よい。見渡す360度が大自然で、「文明」という名の余計な人工物が一切ない。はるか遠くに小さな船影が見えた。ここだけは時間が止まっていて、カレンダーさえ必要のない、悠久な自然の営みが流れているようだった。浜辺でビーチバレーを楽しむ。

夜はバーベキュー。ユニマスの学生たちは、我々の「桃太郎」「V6」のお返しということで、歌とダンスを披露してくれた。これぞ国際交流、異文化交流だ。

電気供給の関係で、午前0時になると、公園内の電気が一斉に消灯される。我々は砂浜に寝そべっていた。電灯が落ちると、満天の星空が広がった。静かな夜だった。波が静かに音を立てた。宇宙にたくさんの星があったことを知る。流れ星が輝いた。また輝いた。何度も、何度も。

日本で忙しい毎日を感じていた一方で、ここの時間は悠大にゆっくりとゆっくりと流れている。帰りたくないとは思っていないけれど、今はただこの緩やかな流れに包まれていたいと思った。

1時間ほど星空を眺めていたのち、ロッジに戻って眠りについた。

そして翌朝。6時過ぎに目が覚めたころ、部屋の相方が帰ってきた。浜辺でオールしていたらしい。高校生の彼はそのままベットで眠りについた。

私は、散歩に出かけた。朝早い時間だと、テングザルに会うことができる。

余談だが、我々は宿泊する注意点として「ロッジの窓には必ず鍵をかけてください」と説明されていた。ところが、F澤さんは、窓の鍵を空けたまま外出してしまったところ、サルの侵入を許してしまい、使い捨てコンタクトレンズを目茶目茶にされたらしい。F澤さんはこれ以来、メガネ生活を強いられることになった。

■帰国のとき

バコ国立公園を離れるときがきた。「日本に帰ったら、打ち上げをやろう」と誰かが言って、携帯番号を交換する。この旅も、少しずつ終わりに近づいてきている。

最後の夜、マレーシアに住んでいるH田さんという日本人女性が、夕食に招待してくれた。希望者のみということで9人ほどのメンバーで自宅へ向かった。

H田さんはマレーシア人の旦那さん&その家族と暮らしており、その家はとても広く、すばらしいご馳走をお腹いっぱい頂いた。マレーシア料理ながら、日本人にも食べやすくなっていたのは、H田さんの料理の腕前だろう。H田さんは20代後半ぐらいでとっても美人だ。

H田さんは、実はツアーの最初からプログラムに同行していた(と、このとき聞かされた)。横浜出身の日本人がサラワクに住んでいるということで、事務局がお声がけし、このような形になったらしい。

そのおかけで、最後にふさわしい、とても素晴らしい特別な夜となった。明日で日本に帰る。そのことがまた、より一層、気持ちを感傷的なものにしているのかもしれない。

<旅のメモより>

マレーシアで過ごす最後の夜。そうか、もうこんなに時間は流れていたんだ。でもきっと希望の火は消えやしないと願う

出発のとき。クチン空港には、マダムSや、H田さんたちがお見送りにきてくれた。待ち合いロビーで、ツアーメンバーが一人ひとり簡単に感想などをスピーチした。

旅の終わりを思うと、やたらと感情がこみあげてくる。女性陣の多くは涙を流していた。こういう雰囲気

に自分も弱い。何ともいえない寂しさが募ってくる。マダムS井とハグをして、別れを惜しんだ。

<旅のメモ>

「振り返れば、出逢って別れての人生。全ての道が交わり、また離れていく。参加して得たものは計り知れなくて、本当に”ありがとう”の気持ちでいっぱいである。」

【完】