旧東海道をゆく(日本橋から京都を目指す旅)
■はじめに
電車やクルマがなかった江戸時代、交通手段は自分の足のみだった頃。人々は歩いて、日本中を動き回っていた。その中でも、江戸と京都をつなぐ東海道とよばれる道は、西へ東へ人が往来した主要な幹線道路であった。歩けば2,3週間程度。「東海道五十三次」とよばれ、53の宿場町があり、大いに賑わっていたらしい。
この東海道という道を、江戸時代の人々と同じ気持ちになって歩いてみたい、という思いが浮かんだ。しかし、東京から京都まで一気にあるくような時間も体力もない。でも、小さく分割して跡切れ跡切れならば、できるかもしれない。というわけで、試しに休日に少しだけ歩いてみようと思った。
■1回目(2022.10.11) 日本橋〜川崎宿
まずは、電車で出発地点へ向かう。日本橋。日本橋そのものは、近代建築のアーチ橋で見るだけでも美しく感じる。道路の交通量は多く、頭上には首都高が走っている。道路のちょうど真ん中には、起点の指標が埋め込まれていて、クルマが途切れた瞬間を狙って、写真を取ってみた。ここが日本の道路の基準点だ。近くにツーリストインフォメーションがあり、地図を購入する。東海道を歩く人のためのいい本を見つけた。早速出発。天気は良好である。
中央通りと呼ばれる国道15号線をまっすぐいく。京橋を通過して、銀座大通りに入った。銀座は江戸幕府の貨幣鋳造地として大いに栄え、銀座役所もあったが、旧東海道にちょうど沿っていたことに気づいた。人が往来するからこそ、繁華街となり、発展し、今の銀座になっている。超一等地として有名な銀座は、東海道を起源としていたのだ。歩いているこの時間は、ちょうど平日の昼間で、東京で働く人たちが多く行き交っていた。
新橋エリアに入る。10年以上前に訪れたことがある「新橋ドライドック」という小さなバーを見つけて、懐かしかった。まだあったのか。道沿いにある日比谷神社に立ち寄り、お参りをする。東海道沿いには、多くのお寺や神社があった。それも行き交う旅人が、旅の安寧や生活の祈りを託してきたのだろう。
「みこ食堂」という小さなお店が気になった。立ち食いの海鮮丼屋さん。「みこ丼」を注文する。うに、サーモン、いくら、さば、マグロなど、どれも新鮮で、遠い旅先でしか食べれないような美味しさだった。良いお店見つけたな。満足。
増上寺に立ち寄る。すぐとなりに東京タワーも見える。本堂内では、儀式的なものをしていて、休憩がてら椅子に座り見物した。構内は、広くきれいで立派で、徳川家の庇護のもと発展してきた歴史を強く感じることができた。
12時を回り、金杉橋を通過。日本橋から4キロ地点という標識を見つけた。だいぶ歩いてきたと思ったけれど、まだ4キロ程度だったかと思った。寄り道が多いのかもしれない。田町付近では、幕末に西郷と勝が会見したという跡地を見つけた。工事中だったけれど。
高輪大木戸跡という場所を通過した。いまは石垣が少し残っている程度の場所で、行き交う人もクルマも気にせずただ流れている程度だけれど、江戸時代にはここに東海道の「門」があったらしい。夜間は閉鎖し、交通を制限していた一つのポイントだったようだ。まったく関係ないけど、オバケトンネルという表示が気になった。あれはなんだったのだろう。足は疲れてきて、品川のビル群をようやく遠目に見ることができた。ひとまずの目標を達成。車が通る国道を少しそれて、旧東海道と呼ばれる道に入る。道に少し風情が出てきて、町おこしのひとつの材料になっているようだった。品川宿本陣は今は公園になっていて、そこのベンチに座り、お年寄りの集団が記念撮影しているのを横目に、クラフトコーラを飲んだらとても美味しかった。
品川宿を出発したのが13:25。旧東海道をのんびり歩いていく。「鈴ヶ森刑場跡」という、江戸時代に罪人が処刑されていたという場所を、道沿いに見つけた。すぐそばにお寺もある。罪人とはいえ、亡くなった人を供養していたことを考えると、死をもって人は赦されるものなのだろうかと思った。死をもってしても赦されない者も歴史の中にいるだろう。被害者とつながりのある者からすれば、死をもってしても赦せないことだってあるだろう。そんなことをぼんやり考えた。
これまで裏通りだった道は、国道15号線(第一京浜)に合流し、車が走る幹線道路の脇を歩く。大森駅あたりで、「日本橋から14キロ地点」という標識を見つけた。いよいよ疲れたなーと感じてくる。いやいや、まだ歩けるはずだと言い聞かせる。
15時、蒲田駅に到着。品川と川崎の中間地点あたりのようなので、ここで休憩にする。駅ナカのタリーズコーヒーに入り、ようやく座ることができた。アイスコーヒーとチョコレートクッキーで一息つく。足だけでなく体中が痛い。歩くだけでも、こんなに身体に負荷がかかるのかと思った。30分ほど、休憩して再出発。
16時すぎに、ついに多摩川にぶつかった。ここが東京都と神奈川県の境だ。そして、江戸時代の人々も、この川をながめて、道のひとつの区切りを感じたのだろうと想像する。ようやく多摩川かと。江戸時代は、橋がなく、舟で渡ったらしい。六郷の渡しというらしい。ここまでくれば、川崎も目の前。
川崎宿が近づいてくると、道沿いには風俗街の通りも見えた。こういったお店も、かつて東海道を行き交う人たちのために作られて、歴史的に発展してきたんだろうと感じる。道には物語があるのだ。
川崎駅ちかく、「砂子」に到着して、今回の旅程は一区切り。次回は、ここから神奈川宿へ。
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■2回目(2023.3.22)川崎〜神奈川宿
前回の旅立ちから約半年という間を置いて、旧東海道の散歩を再開。この日は、朝8時からWBCの決勝を川崎駅前Hubで観戦していた。日本がアメリカを下し、優勝を決めたその高揚感とともに、12時出発。
前回の「砂子」の地点から出発。いさご通りを抜けていく。平日午後の空気感は、のんびりしていて悪くない。八丁畷駅の近くで、松尾芭蕉の句が書かれた石碑を見つけた。石碑の文字は解読できないが、横にある解説案内には、「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」とある。この場所で、旅立ちの別れを詠ったという。
気がついたら川崎市を抜けて、横浜市に入った。鶴見区になる。市場一里塚という石碑を見つけた。日本橋から1里(四キロ)ごとに建てられた目印のようなもので、ここが5番目にあたる。日本橋から20キロ歩いてきたことになる。
金剛寺に立ち寄る。平安時代に創建されたという。道の沿線には神社やお寺が多い。
鶴見川が見えた。鶴見大橋を渡る。鶴見橋関門という旧跡を見つけた。解説によれば、江戸期末に横浜への通行を取り締まる関所がここに置かれていたらしい。
13時、鶴見駅前を通過。鶴見神社に立ち寄る。横浜で最も古い神社とある。推古天皇の代に創建と書かれていた。なかなか立派な構えに感じられた。
生麦という地名が目に入り、生麦事件のことを思い出す。事件をきっかけに、日本史の中で、生麦という地名は躍り出ることになったのだ。キリンビールの広大な工場があり、交通量の多い道路のその脇に、生麦事件の碑というものを見つけることができた。実際の事件現場は、ここからもう少し離れた場所にあるという。
新子安エリアに入り、浅野高校が見えた。4年前、通信制大学に通っていた頃、年数回の定期試験の会場がここで、よく来ていたことを思い出した。新子安駅近くのマクドナルドでコーヒー休憩。
神奈川宿はだいぶ近づいてきている。宮前商店街という小さな道に入った。洲崎大神という神社がある。この神社の正面の坂を下っていく。今では水は見えないけれど、このあたりは船着場だったという。それを想像して、地形を眺めると確かに隆起が感じられて面白い。このあたりのお寺は幕末時代の外国人の宿場になっていたようだ。旧道には、人が行き交う記憶が染み付いている。
青木橋という陸橋を渡る。眼下には、JR線が何本も通過している場所だ。
ここから神奈川台と呼ばれる坂道に入る。料亭田中家というのが見えた。安藤広重の東海道五十三次の浮世絵にも描かれている。かの坂本龍馬の妻おりょうが仲居としてはたらいていたらしい。このあたりはもう神奈川宿という宿場町で、今ではひっそりとした住宅街になっているけれど、かつては多くの行き交う人達で賑わっていたに違いない。坂の上からは、神奈川湊がよくみえる景勝地であったという。眼下には、オフィスビルや住宅街が密集して立ち並んでいるけれど、景色は開けている。昔はすばらしい景観が広がっていたのだろう。
上台橋に到着。神奈川宿はこのあたりということで、この日の散歩を終える。15:40、川崎宿から約3時間40分の旅路であった。
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■3回目(2023.10.12)神奈川宿〜戸塚宿
上台橋から旅の再開。11:30出発。道路の上をまたぐ上台橋は、高台と高台を結んでいる。この地形だと、足下の道路は谷になっていて、ということは川か水路だったのだろうかと想像する。道端に解説の看板を見つけた。それを読むと、「潮騒の聞こえる海辺の道だった」とあった。
浅間神社の前を通過する。神社は少し小高い丘の上にある。さらに進むと、「追分」という地点があり、右に進むと八王子街道につながるらしい。八王子街道は、絹の道だ。八王子から運ばれた生糸が、この追分を通過して、おそらく横浜港に向かっていったのだろう。
松原商店街は、むかしながらの昭和な商店街の面影がある。平日の昼間だけれど、地元の人達で賑わっていて、暮らしを感じた。かつおの藁焼きが気になった。
12:40、保土ケ谷宿に到着。神奈川宿から1時間強なので、わりと短距離に感じた。ここから国道1号に入る。箱根駅伝のコースだろうか。戸塚宿までこのまま行けそうな気がしたので、進む。
権太坂に入り、道は上り坂になる。道端で見つけた解説によれば、「権太」というのは、このあたりに住んでいた老人の名前という説があるらしい。日本橋から歩いてきた道のりは、ふりかえると、ずっと平坦な道だった。山を超える上り坂は、ここ権太坂が初めてかもしれない。
境木地蔵尊に到着。ここから戸塚までは1時間半とあり、少々疲れを感じる。坂を登ってきたせいだろうか。ここから下り坂が続く。この坂の名前が、焼餅坂というらしい。焼餅食べたいなと思い、探したがこのあたりで見つけることができなかった。江戸時代には、名物としてあったのだろう。
徐々に、細い道が続いていて、旧東海道という名はあっても、現代では人々の暮らしの中にある、ただの道だ。旧道の面影はなく、この道で合っているのかと迷い、何度もグーグルマップで再確認してしまう。道には記憶が宿っている。そして人の意識がなくなれば、また人の手入れがなくなれば、道はまた消えていき、自然の中に還っていくものなのかもしれない。
14:30、どこかで休憩したかったが、国道1号沿いの大通りは、カフェなどまったく店が見つからない。ファミマのイートインスペースを見つけて、エチオピアモカとドーナツを買い、しばし休憩。疲れがあり、眠くもなってきた。
15時に「江戸方見付」という場所に到着。ここが戸塚宿の入口にあたるらしい。日本橋から戸塚までは約42キロで、江戸時代の人々は、戸塚まで1日で歩き切り、ここで一泊していたらしい。その体力はすごいなと実感してしまった。戸塚駅東口に到着し、この日の旅をここで切り上げる。
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■4回目(2023.10.24)戸塚宿〜藤沢宿
13時、戸塚を出発。内田本陣跡という看板を見つけた。
海藏院(かいぞういん)というお寺に立ち寄る。鎌倉時代に建立と案内に書かれており、600年以上の長い歴史があるらしい。観光地化している感じはないのに、本堂に入るためにお金を取ったり、鐘をつくのが有料だったりと、お金お金ゴリ押しなところが印象的で、少し興ざめしてしまう。
道は、国道1号沿いの大通りを進む。交通量も多く、道に味気はなく、疲労感を覚える。日本橋から46キロ地点という看板を見つけた。ふと、西の方角に山の稜線が見えた。位置的に丹沢山地だろうか。そこに小さな美しさを感じた。
14時過ぎ、原宿という大きい交差点を通過。原宿という地名は、東京が有名だけれど、ここにもある。原宿の地名の由来はなんだろう。
ひとり歩きをしていると、ふとミスチルの「ゆりかごの丘から」のメロディが頭の中を流れた。自分の幼い頃の記憶、今子育てをして子どもたちと向き合う自分の姿、そして自然と湧き上がる子どもへの愛おしさみたいな感情。
諏訪神社の前を通過し、1号線を離れて、道は脇道の30号線へと入っていく。このあたりから旧東海道っぽさが少し出てきた。
鉄砲宿を通過。看板には、鉄砲宿と影取池の地名の由来とエピソードが書かれていた。昔々、長者にかわいがられていた大蛇が池に住んでいたという。長者の没落で、空腹になった大蛇は、道行く人の「影」を食べて飢えをしのいだ。それが影取の由来だ。困った人々は、長者がつけた蛇の名を呼び、出てきたところを撃ち殺したという。それだけの話だが、なんとなく切なく感じてしまった。
遊行寺坂を下っていく。道の両側には森が広がっていて、その木々が西陽にあたり、秋の美しい気配を感じた。
15時、遊行寺へ到着。一遍上人の銅像がある。歴史の教科書では、鎌倉時代の「踊り念仏」として有名だ。その一遍上人の時宗の総本山がここにある。本堂の中の仏像が、金ピカだったことが印象的。手入れが徹底して行き届いているなと思った。
藤沢宿交流館へ立ち寄り、今日の旅を一区切りする。
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(つづく)