2005タイ

2005年、タイの旅

旅程:2005年2月22日〜28日

■旅のはじまり

大学2年生の春休み。部活の仲間たちで、タイへ行くことになった。男5人。チャイナエアラインは、台北経由で、バンコクの空へと向かう。

2月の冷え込む日本と違い、到着したバンコクの熱帯夜に身体は汗ばむ。東南アジア独特の匂いや空気感。ぐわっっと確かなパッションみたいなものを感じる。聖地カオサンロードで安宿を見つけ、翌日からさっそくバンコクの街を歩く。

■ハトおばさん

タイの暦なのか、この日は仏教系の祝日のようなお祝いムードがあった。街全体に何となくそんな浮かれた雰囲気を感じた。広い公園の中を歩いていると、タイ人のおばさんが寄ってきて、私にハトのエサを手渡した。「エサ撒いてやってよ」という視線を向けてくる。「そうか、今日はおめでたい日なのだ」と勝手に解釈し、餌を撒いた瞬間、おばさんは「エサ代!!金払え!」と本気の剣幕で、手を差し出してくる。しまった、完全に油断した。日本円で500円程度取られた。仕方ないが、やり方が気にくわない。あとで「地球の歩き方」をめくると、『ハトおばさんに注意!主に公園などで、ハトの餌を親切そうに手渡し、まいた瞬間に法外な料金を請求してくる』と注意書きがあった。まったく、そのまんまではないか。そういえば、前にこのコラムを既に読んでいたことを思い出した。やれやれ。

■トゥクトゥクに乗って

タイの町中の移動といえば、トゥクトゥクだ。3輪タクシー。行きたい場所を運転手に伝えて、料金を交渉する。この料金交渉がおもしろいのだ。1年前に行ったベトナムでもよく交渉してバイクタクシーを利用していた。その経験を活かす。個人的な好みだが、料金を割り引いて、最後にチップを多めに渡してあげるというスタンスが好きだ。このときも、交渉で100円分ほど割り引いてもらって、到着したあと、チップを渡してあげた。すると、運転手のおねえさんは大喜びで、私に何度もお礼を言って、去っていった。そんなに嬉しかったか、何かいいことにしたな、などと思っていたら、連れの仲間が「すごい金額渡したな」と驚いていた。私はどうやらお札のゼロをひとつ勘違いして、1000円分のチップを渡していたらしい。驚いた。

■南の島へ

バンコクの喧騒に、元気と微笑をたくさんもらい、そしてまた都会に疲れた我々一行は、南の島を目指した。

タオ島へ。バンコクから南へバスで7時間ほど。夜行バスの旅が始まる。

夜明け。立ち昇る朝もやが辺りを包む。静寂の中、冷たい風が吹きつけ、空気は少し冷え込んでいる。バスを降りた我々は、ここから更に約3時間の船の旅へと続いていく。

南の島では、陽気な太陽が迎えてくれた。今日もタイの空は絶好調だ。港へ降り立つと、怪しい勧誘が我々を囲む。宿の斡旋、タクシードライバー、特に用はない野次馬な人々。「港の辺りの勧誘はやめたほうがいい」と、旅慣れた仲間の1人が言って、海岸沿いを歩き、自力で宿を探す。が、なかなか見つからない。そして目に飛び込んだ、ちょっと贅沢そうなリゾートがよさそうだった。

南の島のコテージ。ほとんど満室だが、2棟分なら用意できるとのことなので、ここで決定。しかし、1棟は、ダブルベット1台とエキストラベット1台の部屋。 もう1棟は、ダブルベット1台のみの部屋というベッド数。男5人なので、ペアで2組はダブルベットで眠るという計算になる。当然、唯一の1人空間である「エキストラベット」を全員が狙う。その1つを賭けたトランプ「大貧民」のマジ勝負が始まった。

■バイク屋のおやじ

レンタルバイク屋でバイクを借りた。男5人、小さな島を制するべくオフロードへ!それは悲運の始まり。

暑い国ゆえ、バイクの風が気持ちいい。アスファルトで整備されていた道路は、人も少なく、車もまばら。我々と同じようにバイクを借りた白人旅行者たちも駆け抜けていく。島の端っこまで行ってみよう、と道は次第にオフロードへと入っていく。ガタガタな悪路、急な昇り坂。小型のバイクは、悪路には不向きで、運転に不慣れな我々は、また一人また一人と、転倒が相次いでしまった。怪我はなかったが、バイクがホコリだらけ傷だらけになってしまった。

レンタルバイクで面倒なのは、その事故賠償だ。とりわけ外国で、さらにこんな田舎の島だと警察もなく、余計に厄介。バイク屋の親父は、薄ら笑いながら、賠償を請求してきた。ある者は日本円で3000円、ある者は9000円(これが私)、ある者は30000円、を結局払わされることになった。さすがに3万円のヤツはしばらく凹んでいた。法外な料金であり、我々は大いに抗議をしたが、バイク屋のオヤジは聞く耳を持たない。悪いことに、お互いが十分な英語力を持ってない。そして、レンタルしたときにパスポートを保証として相手に預けてしまっている。払わず、立ち去るわけにもいかない。

近くのビーチに、日本人が経営しているサーファーショップがあった。前日に顔なじみになっていたこともあり、その人たちに顛末を伝えて、相談してみた。交渉も手伝ってくれて、とても親切な人たちだった。

いろいろ交渉したが、話は好転しない。しかし傷をつけたこちらにも非があること自体は事実。結局、賠償を払うことで着地することになった。泣き寝入りといえばそうだけど、実際あまり文句を言える立場でもない。手痛い経験となり、しばらく我々の間にはドンヨリとした空気が流れたけど、いつか笑い話になれたらいいのだ。失敗は教訓となり、旅行記のネタにもなり、そう悪いものでもないのだ。「あのバイク屋のオヤジめ…!」と今でも我々の中で、いつでも思い出す笑い話の1つだ。

■ライブ

泊まっているコテージの近くには、屋外レストランがあり、そこで我々は毎回食事を済ませていた。毎日お店に顔を出していたら、次第にスタッフの人とも顔なじみになってきた。夜のステージでは、男性二人組のユニットがライブ演奏していた。

南の島に心地よく吹く夜風、汗ばむ身体に、冷たいビール。開放的な気分に酔ってきた我々は、そのミュージシャンにエールと拍手を送り、両手をウェーブさせたりして、場を盛り上げていた。そんなことをしていたら、我々に気づいた彼らは、ノリにのってきて、ギターを上下左右に振り乱し、声は空高く響きわたり、満面の笑みを振りまいて歌いまくっていた。挙げ句、こちらの席にも急接近してきた。「我々は日本でも売れる…!」そんな自信を得たようだ。それは知らないけれど、とりあえず仲良くなった。タオ島の最後の夜に、「僕ら、明日で島を出るんだ」って言ったら、とても残念がっていた。「また来てくれよな」という彼らは、最後までロックンローラーだった。タオ島のうたいびとは、今どこで何をしているんだろう。どうか同じようにどこかで歌っていてほしい。我々の心の中では、彼らはいつまでも歌い続けている。

■最後の事件

南の楽園タオ島での最後の夜。コテージすぐそばの浜辺に座って、我々は海を見ながら語り合っていた。「語り」というのは青春だ。普段ならまったく話さないような、お互いの恋愛話なんかもしたりしていた。満天の星空、微かな波音、果てしなく続く海。世界はどこまでも広がっている。旅の終わりは、どうしようもなく感傷に浸りたくなる。いつもそうだ。1つの旅を終えて、日常に戻る前に、今ここにいることの意味とか、そんな問いかけをしている。答えなんて全く見つからない。でも確かにそこに答えみたいなものがあるような気もしている。

夜明け前の早朝。コテージのドアをドンドンと叩く音がした。別のコテージに泊まっていた仲間が、大慌てで「大変だ!こっちに来てくれ!」という。何事かと思って向かうと、メンバーの1人が呻き声を上げて、ベットで苦しんでいる姿が目に入った。事態はなんとなく深刻なようだ。

話を聞くと、3時くらいに突然ベッドから起き出し、トイレで嘔吐し、それからずっとこんな様子だという。食中毒か何かだろうか。本人は、足がしびれる…などと言っている。よからぬ展開だ。病院につれていく必要がありそうだが、こんな田舎の島で、医療を受けられる場所はあるのだろうか。しかも我々の予定では、今日の午前中には船で出発してバンコクに戻ることになっていて、そうしないと帰国の便の時間に間に合わなくなる。

とにかく、この島でサーファーショップを経営してる日本人たちのところへ相談にいくと「船着場の前の診療所の看護師さんは正規な資格を持ってるから、そこに行きなさい。」というアドバイスをもらった。ありがたい。こういう困ったときこそ、人と人とのつながりの偉大さを実感する。

小さな診療所ではあったが、清潔感もあり、室内は涼しい。女性の看護師さんは若いが頼りになりそうな雰囲気だ。昨夜からの症状を伝える。そして、看護師さんは言った「It’s gastritis」。なんだそれと全員がキョトンとするが、たまたま電子辞書が手元にあった。それで調べる。

『gastritis =胃炎』

おお、すごいぜ電子辞書。そして病名という名前が与えられると、我々は少し安心することに気づく。「点滴を打って、安静にすれば大丈夫でしょう。」と看護師さんは、注射を打とうとした瞬間、胃炎の彼は大慌ててで「待った」をかけた。「is this new??」とっさに出てきた彼の英語。感染を心配した妥当なセリフだが(文法も決して間違えてはいない)、その緊迫した状況と間の抜けた英語に、我々は大爆笑した。日本に戻っても「is this new」の名台詞は語り草となった。

点滴を打ち、クスリも飲んで、症状はだいぶ落ち着いた。でも彼のグッタリした様子は簡単には戻らない。もう一晩この島に泊まれればベストだけど、我々はこれから「バンコクに戻る」という船&深夜バスの強行軍に出なくてはいけない。胃炎の彼も、弱々しく「帰ろう」とつぶやき、予定通りのスケジュールで戻ることになった。

■そして、凱旋

タオ島からバンコクまでの船とバスはまた長旅となったけれど、乗り継ぎは順調にいき、我々は無事バンコクへと凱旋することができた。その間、胃炎の彼は、椅子でぐったりして、横になれるベンチがあればぐったり眠っていた。さいわい、体調がそれ以上悪化することもなく、なんとかバンコクにたどり着き、少しホッとした。徐々に元気を取り戻し、むしろ、なぜか「死体博物館にいきたい」などとも奇妙なことも言い出し、まぁ元気ならよかったとということで、そこを訪れた。そんな感じで残りの時間を過ごし、予定通りの帰国便で日本へと戻ることができたのであった。

■旅のおわり

男5人、タイの珍道中はこうして幕を閉じた。今思えば、無事に帰ることができて本当によかった。大小さまざまな事件は、次から次へと起こったけれど、青春の名にふさわしい僕らの旅であった。数年経っても、この旅の話は、思い出しては語り合い、笑い話にしている。何度も何度も飽きるくらい繰り返しているのに、いつでも記憶の中から引き出せる。ともに旅をした軌跡が、仲間たちのあいだの記憶に鮮明に残っている。10年、20年経っても、再会して酒を飲み交わすときに、またこの話を飽きずに繰り返すのだろう。それはそれで楽しみで、幸せなことだと思う。またいつか同じ仲間でタイに訪れる日が来るのかもしれない。そういうことを想像してみれば、未来にまた一つ明かりが灯る。1/6の夢旅人のメロディがふと頭の中を流れた。

 >一人きりでは できない事も
 >タフな笑顔の 仲間となら乗りきれる
 >たどり着いたら そこがスタート
 >ゴールを決める 余裕なんて今はない

 :樋口了一「1/6の夢旅人2002」より 

<完>