【2023.07.02】vol.44 「どっちか」ではなく「どっちも」 

日々折々

【2023.07.02】vol.44 「どっちか」ではなく「どっちも」 

気分がリラックスする年休の日の朝。休日というのは、何かをすることよりも、前日の夜やその日の朝にあるこのリラックス感に幸福があるのかもしれない。今ここで感じている解放感。緊張する仕事の時間があってこそ、休日は休みという意味を持つ。

仕事があるということ。それは何かすることがある、今日行く場所がある、人と会話を交わす機会がある。広すぎる人間社会の中で、自分の所属があるということ。結果的に、お金になって食べていけること。それが仕事のカタチだ。モヤモヤしたり、嫌な気分もあったりする。それでも、歯車のように巻かれながら日々は動いている。成長でも前進でもなくていい。ただ精一杯、命をつないで、自分が変化していればいい。

学校事務の採用試験。社会人枠の受験資格をチェックし、資格を満たすのは5年後とわかった。仕組みがそうなら仕方がない。たまたまマッチしないこともある。今の仕事に就いたことも、たまたまマッチしただけだ。とはいえ、ゼロだった可能性が、数年後に選択肢が生まれることは事実だ。未来は思いかげない方向に展開していくかもしれない。そんな話を誰かにしてみたい。

映画「小説家を見つけたら」を観た。立場を超えた友情と若者の成長の物語がなんだか心地よかった。『文章は、はじめはハートで書く。リライトは頭を使う』、そんなセリフが印象に残った。バスケがここ最近、目に触れることが多くなったような気もする。

近所に新しくできたベトナム料理店。フォーとバインミーのどちらにしようか迷って、結局、両方食べる。会計のとき、お店のレジで10円玉のお釣りが切れていたらしく、ベトナム人の店員さんが30円おまけしてくれた。そのささやかな心遣いがなんか嬉しくて、また食べにいこうと思った。

戸田真琴著「そっちにいかないで」を読了。彼女の文章の書き方が好きだ。言葉になってくれない感情を、なんとか言葉につむいで、表現しようという戦いや力を感じる。心の奥深くにある、人に対する優しさを感じる。小説内容は頭でなかなか理解できなくて、それがまた、もう少し知りたいという後味をも残す。

仕事と家庭のバランスの取り方に不安を感じている。周囲やボスに気を遣ってしまう自分がいる。恐れている自分がいる。ボスの不満や愚痴に心が陰って、少し考えて、頭の中でグルグルまとわりついている。なんだか居心地がわるいな。自分は自分を優先できているだろうか。「仕事も家庭もどっちも大事」という原則に立ち返って、ヤジロベーみたいにリバランスをとる。「どっちか」ではなく、「どっちも」という視点で、ベストな第三の案を考え続けようぜ。思考を止めるな。

難しい問題は、小さく分けて考える。1人で解決するのではなく、誰かに話す。応援を要請する。協力のかけらを集める。頼れることはとことん頼る。いろんなものを組み合わせればいい。スマートな「100点満点」が難しいときは、なんとか60点の「可」の及第点を、ボーダーラインを越えていこう。

誰かが誰かを非難している声が耳に入る。それが、どこか自分に向けられたもののような気がして、心によどみが残る。それは想像力の魔物だ。誰もが心の中で思ったり、ネットでつぶやいたり、居酒屋で誰かに愚痴を言ったりしている。目に見えるもの、耳に入るものが全てではなく、見えないものや聞こえないもの、知らないものが、世界には無数に溢れていることを知っている。全ての全てを気にしているわけではないのだ。自分は選択することができている。痛みや傷があっても、支えてくれる仲間がいる。優しい人がいて、嬉しい言葉がある。そうやって昨日を乗り越えてきて、今日を続けて、命をつむいで繋げていく。

ボスが「サトウさんができないことが多すぎる」とぼやいて、その言葉がこびりつく。それもそのとおりだ。ザッツライトだ。まだ3ヶ月だしなとも思う。抵抗せず、判断せず、執着せずと自分に言い聞かせる。そのぼやきには、自分へのささやかな期待が含まれているのかもしれない。いや、もしかしたら、あの言葉は、そもそも自分の能力の話ではなくて、同僚が抱える業務の引き継ぎが遅いという意味で言ったような気もしてくる。解釈はいくつもできる。言葉を表面だけで捉えるのではなく、その裏の意味をつかめ。