マイ・ストーリー

「マイ・ストーリー」

 :何の変哲もない自伝的で回顧録的な手紙。

■83-94: innocent world

幼少期の一番古い記憶は、幼稚園の入園式のような光景だ。人混みの廊下をただ歩いている。たぶん親に連れられているのだろう。それが記憶なのかどうなのかはよくわからないけれど、何度か思い出すたびに、そんな気がしてくるので、それを一番古い記憶として、頭の中に保存している。

子どもの頃は、どんな子だったろうと振り返ってみると、「よく泣く子」だったかもしれない。泣くことに、涙を流すことに、抵抗感がなく、素直に泣いていた気がする。たとえば、怒られたとき、物事がうまくいかないとき、辛いとき、人との関係がうまくいかないとき。涙を流したり、泣いてしまう。それは、心が打たれて弱いという面もあるだろうし、逆に、自分の優しさとかストレートな感情表現というプラスな側面もあるんだと思う。とはいえ、この部分は、男として、なかなか不便な事が多かったように思える。年齢を重ねても、むしろ今でさえ、その性格が息づいているからだ。今でも、不便なのである。

それでも、総じて見れば、わりと心豊かで、幸せな日々だったように思える。両親や兄弟、学校の友人達にも恵まれていたし、末っ子特有の気ままさと、左利きであることのユニークさもあって(左利きの人ならわかると思う)、自由に伸び伸びと生きていた。それは、当たり前のようではあったけれど、今振り返れば、そんな境遇を生きることができた人たちばかりではないことも知ったので、その当たり前さに感謝している。

■95-01: I’ll be

話は、中学生時代まで進む。中学生くらいになると、記憶はかなりハッキリしてくる。頭も身体もフル回転だったし、心や感情も揺れ動いていたことも記憶の中にある。総じて見れば、幸福な中学生時代だ。少なくない人たちが、中学は暗黒時代と感じていたり、覚えていたりする。思春期特有の心も身体も人間関係もモヤっとした時期で、環境の変化もあり、人生の中でも壁が多い時期なのだろう。それもよく分かっている。ただ自分自身に関しては、たまたま偶然恵まれていただけだと思うんだけど、部活も順調で、学校生活も順調で、結果的に学習面も順調で、先生や仲間にも恵まれて、荒れた学校環境に巻き込まれることなく、それなりに楽しい3年間を過ごすことができた。繰り返しになるけれど、運が良かったのだろう。

義務教育を終えて、高校へ進んだ。ここで一旦、転機が訪れる。転機というよりも、「転落」だと思う。優等生な中学時代からの反動。高校生になったら「バンド活動がしたい」と思っていた。それは、3歳上の兄の影響だろう。兄は、ドラムを叩きながら、バンド活動をしていた。まだ、兄の影響を受けてしまう時期だ。入学してから、まずは軽音楽部に入ろうとした。そこで一緒にやる仲間も見つかるだろうという期待を込めて。ところが、そこで壁にぶつかってしまった。なんとなく空振ってしまった。部室に一人で行ってみると、同級生たちは、すでに一緒にやる仲間を見つけていて、そこで仲間を見つけるというよりも、仲間を見つけてから軽音楽部に入部するという順序だったようだった。さらに、軽く触った程度の自分のギター技術だったのに対し、同級生たちは、中学から演奏していたのだろうというレベルの「ギターが上手いやつ」で、それととにかく比較してしまって、劣等感をおぼえて、嫌気がしてしまったのだった。入学当初にさっそく、壁にぶつかった。くじかれてしまった。そこに居場所を見つけることができず、思いもよらず、大きく転換して、弓道部に入部することになった。

弓道部を選んだ理由は何だったろう。そもそも、中学まではバスケをしていたけれど、当時から高校ではもうバスケはやらないと思っていたし、高校の運動部というものが自分には難しいように想像していた。あと、ささいな理由だけれど、高校に入ってすぐに、コンタクトレンズをソフトからハードに変えていて、スポーツは危険かもという思い込みがあった。ただ、軽音楽部入部で挫折してしまったため、何かしら部活はやったほうがいいのかなという思いもあった。なんで弓道を選んだか、あんまり覚えていない。ただ、ゼロからスタートできること、全国大会に出るくらい強豪校だったこと、とりあえずやってみようという気持ち程度だったように思える。同期のメンバーは愉快な仲間たちばかりで面白かったし、先輩たちも気さくで良い雰囲気だった。古き良き伝統もあったので、学校内で先輩とすれ違うときは、カバンを置いて挨拶しなくてはいけない、といったルールもあった。当時は面倒だなとは思ったけれど、あれはあれで成長には良い習慣だったような気もしている。公式戦当日は、1年生は始発電車で行って場所を確保するという謎の習慣もあったし、試合に負けた先輩たちが、翌日、自主的に坊主にになっていたことも思い出が深い。わりと楽しい、充実した時間を過ごしていた。

ところが、4月に入部して、たった数ヶ月後、6月に転機がまた訪れる。弓道部を退部することにした。それは、もともとのバンド活動開始に目処がつき始めたからだった。クラスメイトに退部する話をしたら、驚かれたり、心配されたりした記憶がある。背景を知らなければ、何かあったのかと思ったのだろう。自分的には、バンドをやる、そして、楽器を買うためにアルバイトをしようというつもりだった。いずれにせよ、このバンド活動が高校生活と、そしてその後の自分を変えていく大きなきっかけとなった。

この時期のバンド結成について思い出してみる。もともとバンドやりたいと思っていた自分は、入学当初から一緒にできるメンバーを探していた。クラスに一人、ギターを弾けるヤツがいて、最初は軽い気持ちで、バンドやらない?的なメールを送っていたが、反応があんまり芳しく無く、まぁそんなものかと思っていた。ところが、この種まきが大きく育つことになるのだから、やはり人生は分からない。数ヶ月して、彼がバンド結成に動き始めたときに、誘ってくれたのだ。ギターを選ぶことに挫けていた自分は、ベースを選ぶことにした。彼がギターをやっていたし、家ではドラムをたたく兄を見ていたので、違うポジションを取りたかったのだろう。基本的に単音で弾くベースのシンプルさと、ギターでもドラムでもない珍しい楽器みたいなユニークさにカッコよさも感じていた。ボーカル、ドラム、キーボードのメンバーが決まり、このバンドは動き始めた。

ようやく欲しいものが手に入って、スタート地点に立ったものの、当初、このバンドの動きは、必ずしも良いものではなかった。わりと仲のいい友達関係ではあったものの、それぞれが本職の運動部で活動していたり、コミュニケーションがスムーズというわけでもなく、全員が揃わなかったりで、動きが停滞していた。自分は、それを最優先にして、部活もやめたし、バイトも始めたし、がんがんやっていこうと思っていたものの、集まりもよくなく、なんだか、またから回ってしまっているように感じていた。一方で、自分自身もベースの演奏力が満足いくものでもなく、それに対するジタバタ感もあった。細々と進む音楽活動は、高校生活の中での核になるとは程遠く、自分も居場所が見つけにくくなっていた。バンド活動の停滞はしばらく続く。

一方で、高校一年生の夏頃から、マクドナルドでアルバイトを始めていた。それはそれで同世代で他校の仲間に出会ったり、新しい世界が広がっていた。そのあたりから、生活の主軸が、学校の中から、外へと変わっていった。学校の勉強に対するどうでもよさが生まれたのもこのあたりからで、入学当初、学力テストで30番以内だった自分の学力は、330位あたりまで急降下していく。中学校から続く優等生時代が終焉し、なんだか反抗期というか、社会に対するヤサグレ感が出てきたのも、ちょうどこの15歳の頃からだ。といっても、社会的な迷惑行為をしていたわけでもなく、自分自身の心の中でもがいていただけなので、やっぱり根が真面目な部分は、人格がほぼ完成していたのだろう。

停滞していたバンド活動は、高校2年生になってから少しずつ良い方向に向かっていった。ドラム担当がたまたま転校してしまい、抜けてしまった穴に、新しいメンバーが加入。雰囲気の新陳代謝になった。そして、それまで曲をコピーしていた自分たちが、本当に偶然にもスタジオで音をガチャガチャならして、自分たちのオリジナル曲を1つ作り上げてしまった。そこから何かが変わった。たぶん、GLAYやL’Arc~en~Cielといった当時の憧れのヒーローたちを真似するところから、1つ変わって、自分たちらしい音を出すようになったのだ。一言で言えば、演奏することが楽しくなってきたのだ。思い返せば、それまでは楽しいという感覚は欠けていた気がする。私も、このとき初めて、「音楽とは、音を楽しむことだ」というアタリマエのことに気づいた。そうだ、楽しければいいのか。

高校3年生になれば、進学校ということもあって、ほとんどの人が大学進学と受験勉強にとりつかれていく。高校から距離をおいていた自分も、3年生のクラスに恵まれたせいか分からないけれど、バイトをやめて、生活の主軸をまた高校へとシフトしていた。自分なりにもモラトリアムを終わらせて、大学受験を意識し始めたのだろう。とはいえ、勉強一筋というよりも、体育祭や文化祭といった学校行事を楽しみながら、充実した最後の高校生活を過ごすことができた。

大学受験勉強に関しては、「独学でやる」というこだわりがあった。これまで、学習塾に通ったこともなかったし、通わずにそれなりの成績が出ていたので、自分でできるんじゃないかという自信もあった。予備校はお金がかかるという理由も少なからずあった。同級生たちがこぞって大手予備校に通い始める中、自分は予備校に行かないことを決めた。そういうひとは周りにほとんどいなかったと思う。それが逆にいい意味での反骨心として働き、モチベーションが上がった。そして、第一志望の大学に現役合格することができたのだ。18歳になったばかりだった。次の新しい世界が開けようとしていた。

■01- : Any

「新しい季節はなぜか切ない日々で」の歌いだしで始まるスピッツの「ロビンソン」。18歳になりたての春は、その歌詞とメロディが重なる。高校を卒業し、大学生になって、新しい日々が始まったのに、なんだかモヤモヤする時期だった。理由はなんだったろう。新しい生活にリズムが乗らず、新しい環境化で思うように人間関係も作れず、勉強にも身が入らず、居場所が見つけられずに、壁にぶつかった。具体的ななにかに巻き込まれたわけではなかった。ただ自分の理想と現実とのギャップが苦しくなっていたので、心の問題だろう。長い人生の中で、もっとも暗くて、どんよりとしていて、精神的には鬱に近い状態まで落ちていた。大学から足が遠ざかり、週5日通っていたところが、週3、週1と、減っていき、6月頃になると、まったく大学に通えなくなってしまった。行かなくなるとさらに行けなくなるというスパイラルに陥り、社会の中で自分の居場所が見つけられずにいた。誰かに相談することもできなかった。平日の昼間、街中をふらふら歩き、夜はパソコンに向かってずっとゲームをし、ただ現実逃避していた日々が、1ヶ月ほど続いた。出口のない、心の闇の中に潜り込み、出てこれない。引きこもり、うつ症状、閉塞感。生きている意味をなくしてしまった。まじめすぎるゆえの、息苦しさだったろう。

もがいていた日々は、一方で、なんとかしなくてはという本能も動いていた。もはや大学へ通う気力はなくなっていたが、7月になって、アルバイトをしようと思い始めた。そこから映画館でアルバイトを始めて、そこが幸いにもリスタートする場所になったのだ。その頃、気分が滅入っていたこともあり、人間関係が億劫で、人間不信のようなものになっていた。だから、あたらしく人間関係をつくること自体も自信がなくなっていた。だが、この新しい職場は、本当に様々なタイプの人たちがいて、大学生もいれば、主婦やフリーター、年齢も同年代から20−30代くらいと近い人が多く、サークル的な賑やかさがあった。その中で、楽しい時間を過ごし、大げさに言えば、自分は「笑うことを取り戻した」という感覚だった。時給も安く、夏休みの忙しさは半端なかったけれど、それでも多くの人たちと関わる中で、自信を取り戻し、力を回復し、仕事の外でも飲んだり遊んだりできる仲間たちに出会えたことは、その後にも残る、かけがえのない財産になったのだ。

一方で、宙ぶらりんになっていた、大学の方は、今年は通うこともできないだろうと判断し、学費のもったいなさもあったので、半年間の休学という形をとった。当時在籍していた大学は、休学するために学部長と面談をする、という珍しい制度があった。そのためにキャンパスへ行ったことをかすかに覚えている。行く前は、非難されるのかなとか恐怖はあった。嫌悪感があった大学という場所も、思ったほど怖くはなくて、学部長も穏やかで、本音を話すことができた。どんな話をしたのかほとんど覚えてないけれど、「通えなくなって、休学するひともいますよ」と言われたことは不思議と覚えている。その言葉は、かすかに自分を支えて、肯定してくれたかもしれない。きっとそうだろう。

海外を旅する、ということが始まったのも、この時期からである。2001年の9月、初めて海外旅行をすることになった。渡航先は、韓国である。一緒に行く人も見つからなかったし、むしろ一人でいっかという気分だったので、一人で行くことにした。とはいえ、初めての外国ということにかなりビビっていたし、わからないことだらけだったので、旅行会社で、航空券+ホテルというパックを申し込むことにした。空港からホテルまでの送迎も含まれているので、それ以外は自力でなんとかなるだろう。韓国を選んだ一番の理由は、「板門店(はんもんてん)」という場所を訪れたいと思ったからだ。板門店とは、韓国と北朝鮮の軍事境界線上にある場所であり、南北間の会議などが行われる場所だ。歴史的に、社会的に、政治的に、極めて重要で貴重な場所である。その場所にツアーで行くことができる、という情報をどこからから手に入れたとき、ぜひ行ってみたいと思った。かくして、日程を3泊4日で設定し、板門店ツアーも申込み、パスポートなども手配し、いろいろと準備を進めていった。海外の旅の詳細は、別のページに記載する。

さて、初めての海外という体験は、自分にとって大きな刺激となった。世界が少しだけ広くなったような気がした。自分も海外に行くことができるのだという単純で壮大な実感を得ることができた。早速、次はどこへいこうという気分にもなった。翌月すぐまたシンガポールへ行くこともできた。

映画館のバイトも順調で、仲間とワイワイ楽しい時間を過ごし、海外旅行もちらほら楽しみながらも、一方で、休学が続いていた大学は、期間終了というリミットが近づいていて、春が近づくにつれ、次の自分の人生の進路を決めていく必要が出てきた。とりあえず戻ろうと、心に決めていたものの、復帰初日に、久しぶりのキャンパスの中を歩いて、苦しくて辛い記憶がフラッシュバックした。それはただ自分の気持ちの問題だったけれど、しばらく避けていた場所に戻っても、新鮮な気持ちになれず、キラキラした新入生や、2年生に進んだ同級生たちを横目に、「これは無理だ」と一人で悟った。誰に相談するわけもなく、4月の登校初日にして、私は大学事務の窓口にいき「退学手続きをしたい」と申し入れた。窓口の方も、この始まりの日に、場違いな依頼を受けて、なんとなく戸惑っていたような感じだったことは、今でも鮮明に覚えている。具体的にどんな手続きだったかは記憶にほとんどない。かくして、私は、「大学中退者」となり、社会人でも学生でもない、真に宙ぶらりんな、立場となった。重たかった大学から離れた開放感は、一時的なもので、すぐにそれは不安定な何かに変わり、味わったことのない虚無感に襲われた。先にも後にも進めない。どこへいけばいいのかすら、もうわからなくなっていた。からっぽになったとき、人は(少なくともこの年齢の人は)、「働く」か「学ぶ」か、たぶん、どちらかに所属していなくてはいけないんだ、ということを知った。

■02: Any

転機のきっかけとなるのは、いつも「人の縁」と「旅」だとそう思った。この時期もそうだった。ぼんやり迷える自分に、助け舟を出してくれた友人がいる。彼女は、旅行のパンフレットを私に手渡して、「普通のツアーもいいけど、こういう、テーマがあるスタディツアーに参加するといいよ」と言った。それをヒントに、ネットなどを使って探してみると、そういうツアーがいろいろあることを知る。地元横浜で、国際交流協会が企画するひとつのツアーを見つけた。「国際交流」と「植林」をテーマに、「マレーシアへ8日間行く」という内容だった。彼女が言っていたスタディツアーってこういうものかな。直感は、自分に「行け」と言った。かくして旅の参加が決まる。そして、このツアーがまたひとつ人生の転機となったのだ。

マレーシアの旅は、ただの観光ツアーというより、国際交流という名目のスタディツアーであったため、事前研修みたいな形で、ツアー参加者が集まる機会があった。とはいえ、固くるしく眠くなるものではなく、少し真面目な意識をもった、年齢の近い男女がワイワイと楽しんでいる雰囲気だった。緊張も解けた。プログラムの説明とか、現地の学生たちとの交流のときの、日本サイドの出し物とか、そんなことを楽しみながらやっていた。

マレーシアの旅は、自分の転機となり、そこからとんでもないエネルギーが噴出した。「働く」か「学ぶ」かの選択肢の中で、もう一度、大学へ戻ることにした。とはいえ、退学した大学には戻る気もさらさらなかった。19歳、ふたたび大学受験の挑戦が始まった。そして、親の金銭負担を考えて、「国公立大学」、予備校にいかない「独学」、受験にかかる費用(参考書やら受験料)をできるだけ「自費」として、一日13時間の勉強。夏を超えて、秋を過ぎて、肌寒い季節を超えて、第一志望の地元公立大学に合格した。いつ振り返っても、それは、たまたまとしか思えないけれど、とにかく合格は合格。人生の再出発が始まったのだ。

■03-07:

再び大学生になった。失敗を活かそうと思った。それなりに学んできたのだ。まず、特定のやりたいことに固執するのは止めることにした。1つのところに軸足を置かない。そして、できるだけ複数の世界を持つ。異なる仲間繋がりを持つ。大学を4年間で卒業する。大学に合格したとはいえ、その頃はまだ、全く前の傷は癒えてなかった。また辞めてしまうことを恐れていた。

1年目はリスク回避に動いた。複数の場所を持つ。まず精神的に安定していた映画館バイトのつながり。大学の学科のクラスでゆるくつながる。高校時代以来の友達ともつながっておく。新しいボランティアを始める。ヨーロッパ旅行の計画を立てる。そして、大学の部活に入る。入学式で、運命とした言いようのない出会いもあった。そいつに連れられてグランドホッケー部に入った。それが大学生活を軌道に乗せるものに成長した。5つのコミュニティに同時に属する。このスタイルは、自分にとって居心地のいいものだった。2年生になるとき、この学部では、ゼミに入る。朗らかな教授と、親しんだ部活の先輩、そして、和気あいあいとしたメンバーの雰囲気という基準で選んだゼミは、卒業までの、もう一つの大切な場所になった。

大学生活は、部活を中心に回っていた。オフになると海外旅行へ行った。学業は本気でやっていたとはとても思えないけれど、ゼミは真面目に取り組んでいたような気もする。大学中退の経験は、心の闇としてまだ残っていたけれど、それでも2年間ほど経過すると、その痛みは和らいでいたように思える。2年生のときには、高校時代のバンド活動が一時的に復活し、全曲オリジナル、単独ライブをやるという暴挙にも出た。友人のつてをたどって100人以上はお客さんが来てくれた。その中でも、自分で作詞作曲をした「21」という曲も披露できた。オリジナルアルバムも手作りし、バンド活動は1つの節目となる。そして、大学も4年間という期限付きのモラトリアムであり、次第に、卒業後どうするかという判断を迫られてくる。大学3年生の肌寒い秋、学校内で就職活動説明会なるものが気になり始めた頃、自分も「就活」という言葉が自分ごとになってきていた。

卒業後どうするかについて、当時考えていたことは、「とりあえず就職」だった。それは、4年前の無職期間の経験から導き出されたもの。どこかに所属する、学ぶか働くか、どっちかはやっておいたほうがいい。また無職でフラフラするつもりもなかったし、大学院に進むほど学問を突き詰めたいとは思わなかった。公務員か民間企業か、という選択については、公務員になりたいという方に気持ちは傾いていたが、「民間企業の入り口は、新卒の今だけかも」という理由と、部活動をしながらの公務員試験勉強が困難かもという理由で、民間企業を選択した。周りと同じように、リクナビに登録したり、企業説明会行ってみたり、それっぽい活動は始めたものの、あんまり気持ちが上向かない。やりたいことがある人は、目標が明確な人は、きっと情熱的に活動するんだろうけれど、自分は、やりたいことを目指すときの傷跡がまだしっかり残っていて、どちらかというと「なんでも良いから、できるだけ長く続けられる場所」という点が基準であり、つまるところ「人がいいところ。雰囲気がいいところ」であればいいというのが最優先事項だった。就職活動の基準は人それぞれだ。

自分にとっての初めての就職活動は、運がいいものだった。数年前の就職氷河期は終わり、景気が上向き、企業は積極採用していた時期になっていた。「売り手市場」だ。氷河期というものは知らなかったけど、企業の強い採用意欲は肌で感じることができた。なんとなく船会社が面白そうだと直感して、いくつかに応募し、先行して選考が早かった小さな企業で、面接がトントン拍子に進み、内定が出てしまった。1つ目に面接した企業で内定が出て、しかも、直感的にこの会社の雰囲気なら続けられそうと思っていたので、すぐにそこで決まった。そのあと他にもいくつか受けた気がするけれど、最初の企業で自分の中で決まっていたと思う。かくして、私の就職活動は2ヶ月程度の短期間で終了し、あんまり迷うことなく、これでいこうとなった。もともと大企業より中小企業がよかったし、英語を使う国際的な業務に関われるし、社内の人達も和やかな雰囲気で、ここが自分に合うなと確信があったのだろう。そういった意味でも、縁はたまたまだし、運がよかったんだと思う。

そして大学4年生になり、学生最後の年になった。部活も続けていた。ゼミでは卒論を書くという最後のヤマが待っていた。秋が過ぎて、部活では引退試合も終わった。卒論を1月に提出し、学生最後の旅に出た。イベリア半島をめぐり、マカオも行き、最後はトルコを旅した。トルコの冬の肌寒さは、社会人になる直前の不安感を煽った。そして、私はサラリーマンになった。

■07 彩り

社会人生活、はじまる。最初の勤務地は、東京都内の茅場町というところ。日本橋が近くにあるオフィス街だ。小さな会社のため、同期入社は4名と少なく、初日の役員とのランチで、ビールを飲まされたことが記憶に残っている。そういう風土の業界であり、会社である。それは在籍した10年間、変わらず実感したことだ。残業中に缶ビールとおつまみが配られたこともあった。

入社前のイメージと同じで、社内の人間関係や柔らかく、上司や先輩も優しく、自分としては、居心地がよかった。これなら続けられるかなという手応えもあった。大学中退の傷はまだ癒えてなく、その影はまだ引きずっていたので、この場所に長くとどまることが最優先課題だった。キャリアアップとか年収とか、ほとんど興味関心がなかったのだ。私が入社した2007年は、好景気の時代であり、巡航な世界景気と船舶不足を背景に、海運業界はバブル期でもあった。調子がいい時期だったことだ。これは翌年のリーマンショックで一変する。

2008年のリーマンショックを引き金に、世界的な金融危機が起こった。会社勤めとして、その不景気はモロに実感した。自動車の海外輸出は、ぱったりと止まった。アメリカ人がクルマを買わなくなったからだ。仕事がなくなり、やることがないという雰囲気があった。残業禁止と定時帰社の指示もあった。自社ではなかったけど世間では新卒学生の内定取り消しみたいな噂もあった。親会社の自動車メーカーは、危機的な状況に陥っていた。それは子会社である自社に波及し、親会社は合理化のため、他の大手船会社へ売却した。入社3年目、倒産はしなかったが、小さい会社は、大会社の意向で簡単に売却される木の葉みたいなものだと実感した。売却先は、変な外資ファンドでなく、まともな日本企業だったことがせめてもの救いだったかもしれない。しかし、親会社が変わるということは、自分の会社が大きく変化することだ。

親会社が変わるということが告げられた朝のことは記憶に鮮明だ。社内がいつも違う空気であり、社員全員が集められて社長が説明があった。なんとなく不安に包まれていた。とはいえ、その日から何か仕事が変わるわけもなく、目の前の仕事を淡々とこなす日々が続いた。時間が経てば薄れていくように、変化のない日々であったが、社長が変わったり、親会社から人が送り込まれたり、なんとなく、変化しつつあった。裏では本格的な計画があったのだろうけれど、末端の平社員としては、あまり気が付かなかった。

私生活では、結婚したり、第一子が生まれたりと変化があった。結婚して生活リズムは変わらなかったけれど、子どもがうまれてからは、外に出たり、友人と遊んだりする時間が大きく減った。家庭の中に時間を割きたいという気持ちもあったし、遠慮する気持ちもあった。また、周囲の友人たちも家庭を持ったり、子どもが生まれたりして、仲間と予定が合う機会も減ってきたのが、ちょうど30代に突入した頃だ。

仕事についていえば、会社の風土が変わり、部署異動があったりして、上司とウマが合わず、働くことにストレスがかかりはじめていた。メンタルが弱り始めて、モチベーションも上がらなくなってきた。その中で、新生児を育てていた時間は、自分に力をくれて、支えとなり、なんとかこの時期を乗り越えようとしていた。とはいえ、事業環境だけでなく、なんとなく、このまま今の会社を続けて良いものかと思い始めていた。おそらく誰もが考える、このままでいいのかどうかの悩みだろう。自分も引っかかり始めていた。そして、心は、新しい環境を求め始めた。

「学校の教員をやってみたい」と思い始めたきっかけ。それは何だったのか。1つの確かなエピソードというよりも、漠然とぼんやりとどこからか、そう思い始めたような気がする。幼馴染がサラリーマンを辞めて中学校の教員になった。周りの友人で教員が多かった。自分の子どもを育てる中で成長に関わる仕事に興味がわいた。ふと中学生時代の自分を思い出して、カラカラに乾いた会社員生活と決別して生々しい感情に触れてみたくなった。。。どれもそうである気がするし、動機として弱いような気もする。そんなものが積み重なって、教員の道を考え始めた。とはいえ、年齢はすでに34歳。2人目の子どもももうすぐ生まれる。生計もある。責任もあるのだろう。でも結局、今の仕事がイヤになって、飛び出してしまえと心の衝動があった。それが一番大きい。

いろいろ検討課題を調べ始めた。まず「どうしたら教員になれるか」。免許がないので、通信制の大学に通って免許をとる。教育実習があるので最短でも2年が必要と分かった。その間、働きながら学ぶか。働くことを辞めるか。今の部署では時間確保が難しい。子どもが産まれれば、さらに難しい。「仕事」「子育て」「勉強」の3つをこなすのは不可能だと思った。どれも中途半端になる。必然的に「勉強」は後回しになるだろう。優先順位を考えると、今しかできない「子育て」は選びたい。そして、会社員続けるより、新しい世界に飛び込めと、心は言っている。仕事は捨てることにした。会社を辞める。

他に検討すべき課題。学費とか生活費。これは、計算上問題ないことがわかった。貯金と家計簿を重ねてきたのだ。数字をみれば、不安にはならない、冷静に判断できる。他には、長男の「保育園問題」がある。要は、無職の学生の身で、保育園を継続できるか。これも区役所窓口で相談して、利用要件を満たすことができると分かった。本当にタイミングがよかったのは、これから産まれる子の保育園利用申請を「フルタイム会社員」のタイミングでしていたことで、下の子は保育園に滑り込むことができたということ。保育園問題も解消した。

10年間勤めた会社を辞める。それは人生の中でも大きなイベントだ。人は遅かれ早かれ勤めた会社を辞める機会に出くわす。それが自動的に向こう側からくることもあれば、自分が選んでいく場合もある。学校を卒業したり、アルバイトを辞めたり、一つの場所から去りゆく機会は今まであったけど、社会人としての場から自ら去るのは初めてだ。世の中に退職経験がある人とそうでない人がいる。経験して、いろいろ知ること学ぶことは多い。一つの場所を去るとき、今まで積み重ねたものがあふれてくる。それは人と人との感情。ありがたいことに、別れを惜しむ人が多くいてくれた。涙を流してくれる人たちがいた。それがありがたい。

そして、またからっぽになった。

■2018

大学への入学手続きは、スムーズに進んだ。ダンボール一箱分のテキストが送付されてきて、学習計画を立てる。独学は高校生の頃から得意だ。レポートを提出する、試験を受けに行く、単位をとる。必要な単位を揃える。同時に、教育実習や介護体験のスケジュールを管理する。

無職になって気づくことはある。平日昼間ののんびりした時間は、今までなかったものだ。毎日着ていたスーツは着なくなり、逆に外出するための普段着が必要になった。家には産休中の妻と生まれたばかりの子どもがいて、自分の居場所がなくなり、外に出るけれど、ずっといられる場所もない。会社のオフィスというものは、精神的にも物理的にも、居場所になると分かった。しかもコストがかからない。自分の居場所を確保するためには、本来、お金がかかるものだ。旅先と同じだ。

通信制の大学は、通学せずに、ひとりで家で学ぶ。私が選んだ大学では、具体的には、大学から送付された教科書を読み、課題としてレポートを書き、それを郵送する。しばらくすると、添削されたものが戻ってくるが、「可」か「不可」かで結果が決まる。レポートが「可」であれば、次にテストになる。テストは、試験会場まで受けに行く。この試験に合格すれば、単位取得となる。これを必要な単位分繰り返す。

印象深いのは、スクーリングだ。夏休みなど長期休暇中は、大学へ通い、講義を受けることができる。会ったことがないけど、同じ志を持った仲間に出会うことができる。行く前は緊張したけど、今振り返れば、参加してよかったなと思った。

それに加えて、重要なのが「教育実習」である。実際に現場の学校へ行く。中学校教員だと、3週間。申込みのタイミングなどもあり、これは2年目に行くことになる。

そして、免許取得のための勉強をしつつ、自治体が実施する教員採用試験も受験する。こうして、全てが順調にいけば、2年後に、免許を取得して、教員として採用され、教壇に立つことになるのだ。想定ではすべて計画通りに行くはずだった。

■19 皮膚呼吸

しかし、人生とは思い通りにいかないものだ。採用試験合格に失敗し、その道に霧がかかった。それは、ただ試験に落ちたというよりも、自分自身の中で「そもそも、この道だったのか」がわからなくなったことだ。強い志があれば、何度でも試験を受ければいいし、非常勤講師とか何通りも道はある世界だ。でも、自分の思いがなければ、一歩を踏み出せない。道を見失ってしまった。掲げた拳、その行き場はどうすればいいのだろう。友人たちに会うことすら、億劫になるぐらい、ふさぎこんでしまっている。2周間ほどぼんやりしていたのは、18歳のときに大学に行けなくなったあの頃とよく似ていた。

何もしていない時間もしばらく経つと、何かしなくてはという気分にもなった。とりあえず、非常勤講師の登録をするかと思い、教育委員会の事務所を訪ねる。タイミング的には、教員免許の発行直前で、免許がなくても何かできる仕事はないかと相談したところ、紹介されたのが学校事務という仕事だった。そのときの一瞬は、覚えている。マクドナルドでコーヒーを飲んでて電話がかかってきた。3秒ほど迷って、「やります」と言ったのだ。思い出した言葉は、「ときに機会は一度しか訪れません。しっかりとつかみなさい」という言葉。人生は数奇で、ときに偶然がめぐりめぐりって、次の場所へつながるものだ。そうして、教員ではない、新しい仕事がたまたま決まった。

■20

慣れない仕事と、久しぶりの社会人生活。時間はかかったけれど、数ヶ月もすれば、その仕事にも慣れてきた。そこに襲ってきたのが、新型コロナウイルスである。学校という最前線にいて、異例の臨時休校に突入。息子はちょうど小学校入学の時期で、入学したものの、登校できないという時期であった。世の中が急に変化して、日本も世界も大きく変わり、異常な事態になった。恐怖が世の中を覆っていくことを肌で感じた。幸いだったのは、公務員という仕事柄、仕事や収入が絶たれなかったことだ。世の中が不安定なときに、公務員というのはこんなに硬いものなのかと初めて実感した。

■2022

■とりあえずのあとがき

自分の半生を振り返ったこのページも、現在までたどり着いたので、ここでひとまずの区切り。そして、まだ自分の人生はこれからも続いていくようなので、このマイ・ストーリーもまた続いていく。

<完>