2007イベリア半島

2007年、イベリア半島の旅

旅程:2007年2月2日〜23日

■旅のプロローグ

大学卒業を控えた長い春休みを使って、かねてからヨーロッパに行こうと企んでいた。1月に卒業論文を書き上げ、卒論発表会を終えたら、すぐ旅立とうと思っていた。期間は3−4週間程度と長めに取る。4年前の2003年には、3週間程度をかけて、ロンドンからアテネまでヨーロッパを斜めに縦断していたので、今回は、訪問したことがない国に行きたいと思っていた。

候補は2つあった。

1つ目は、中欧と呼ばれるエリアを回ることだ。具体的には、チェコ、オーストリア、ハンガリーのあたり。ウィーン、プラハ、ブダペストという都市の名前の聞いただけで、想像の中で教会の鐘が鳴り響く。石畳の道と石造りの町並みが広がり、古都の大人びた雰囲気を想像する。悪くない。

2つ目は、イベリア半島だ。スペイン、ポルトガルといった国々。そこにはバルセロナがある。そして、半島をぐるぐる回り、もしかするとアフリカ大陸にもタッチできるかもしれない。

年末あたりから、この2つの選択肢の間で、結構悩んだが、決め手となったのは、「2月の中欧は、きっとものすごく寒そうだ」という部分だ。私は寒いのが苦手だ。中欧には行きたいけれど、行くなら夏のシーズンのほうがよさそうだ。ひるがえって、イベリア半島には、なんとなく暖かそうなイメージがある。イベリア半島にしよう。

そして、もう一つの大きな理由として、ポルトガルの「サグレス岬」を訪れたいと思った。沢木耕太郎「深夜特急」でおなじみ「果ての岬」だ。「深夜特急」の終着地、旅を終える場所。それは、大学を卒業する前の最後の旅をいく自分にふさわしく、重なる。

■アムステルダムへ

イベリア半島の旅の出発点は、バルセロナだ。バルセロナへ向かう格安航空券を探してたら、KLMオランダ航空が見つかった。経由地のアムステルダムでストップオーバーできることがわかり、せっかくなので、オランダで2泊することにする。

バックパッカーの旅である。宿は事前予約せず、ユースホステルをメインに、飛び込みでその日その日の宿を探す。スキポール空港から電車で市の中心部へ出た。地図を頼りに、道端でユースホステルの場所を探していたら、オランダ人らしき若者が声を変えてきた。「案内するよ!」。なんて親切な国なんだ。江戸時代以来の日蘭友好関係の歴史を思い返した。日本もオランダも、海とともに生き、貿易を通じて発展してきた国なのだ。相通じるものがあるのだろう。

10分ほど歩いて、ユースホステルに到着することができた。若者に感謝し、さよならを告げる。彼は、突然言った。

「マネー!」

マジか。驚いた。あまりに唐突な彼の言葉に。そして少々腹が立ち、丁重にお断りした。不満を持った彼は、そのまま立ち去っていた。しばらく私もぼんやり考えてしまった。わりと爽やかで怪しげなところもなかったので、警戒はしなかったけれど、道案内で金をもらおうとするのかと不思議に思った。そして、オランダというのはそういう国なのか?オランダ人はそういう人たちなのか?たまたま、そういう人に当たっただけなのか?と真面目に考えてしまった。今のところ答えは出ていない。後にも先にもこの経験は1度だけだったけれど、初めて訪れた国の第一印象として強く残ってしまった。

アムステルダムの宿は、「STAYOKAY AMSTERDAM STADSDOELEN」。今回の旅の中で、朝食がいちばん豪華だった記憶がある。豪華といっても、パンが2−3種類、ハムが2−3種類、チーズも2−3種類から選べるというレベルだけど、バックパッカーにはかなり豪華だ。ヨーロッパの朝食は、4年前と同じく、ham&cheezeだ。

ドミトリーは4人部屋。その部屋で、出会った日本人旅行者とは、のちにトレドでたまたま再会することになる。旅をしていると、別の場所でまた会ってしまうことがよくある。

アムステルダム。街はイメージ通り美しい。石造りの建物が所狭しと並び、街の中を運河が縦横無尽に通っている。天気はよく、水面はキラキラと光を反射し、小舟がたまに行き交う。船漕ぎのおじさんに手を振った。

「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクの家も見学できる。第二次大戦下、一家が隠れ家として実際に使っていた場所だ。本棚にカモフラージュされていた入り口は、当時のリアルさや緊張感を想像で感じることができる。息を潜めて生活していた彼女たちの2年間を考えた。

ゴッホ美術館はじめ美術館をめぐり、まちなかを散策した。広い公園も多く、水と緑が調和した美しい街だ。オランダはほとんど英語が通じるので、旅がしやすい。

■バルセロナ

オランダからスペインへ飛行機で移動。バルセロナ空港に到着。スペイン語の看板が目に飛び込んできて、また違う国にきたと感じた。バルセロナの市内に出ると、さっそく不思議な建物を見た。これがガウディ建築か。

バルセロナ観光の目玉は、やはり「サグラダ・ファミリア」だ。アントニ・ガウディの最高傑作、世界遺産で、なんといっても「未完」の大聖堂。訪れたとき、まだ工事真っ只中そのものだった。間近でみれば、天に突き刺さるような建物の高さを感じる。内部もまた、縦に広がる空間で、やはり天を感じる。細かい彫刻物をたくさん見る。なによりも、不思議なことにこの建物は、完成していないことに価値があるのではないかという気がした。建築途中の建物に価値を見いだせるのは、このサグラダ・ファミリアくらいなのではないか。

サンパウ病院に訪れた。これもガウディ建築のひとつ。病院が持つ独特な暗さとは異なり、これが病院かと驚くほど奇抜なデザインだ。

グエル公園へと足を運ぶ。広い公園を散歩しながら、BUMP OF CHICKENの「バイバイ・サンキュー」という曲が頭に流れてきた。海外を旅してると、3日めくらいのタイミングで、切なさがやってくる。一人旅をしているときの独特な切なさだ。一人旅の気楽さを楽しみつつも、どこか無意識の中に、孤独や寂しさを抱えているのだろう。人とのふれあいやつながりが必要だとよく思う。大学を卒業する寂しさが、それにちょうど重なる。

 『ひとりぼっち みんないなくて 元気にやっていけるかな 

 僕の場所はどこなんだ 遠くに行ったって見つかるとは限んない』

この歌詞を何度も口ずさんでいた。卒業、別れのときは確実に近づいている。

バルセロナでは、ドミトリーは4人部屋で、このホステルはなぜか男女混合の相部屋になっていた(基本的には男女別々な宿が多いと思う)。その部屋で、日本人2人とは仲良くなり、一人の女の子は、このあとスペインの別の都市でたまたま再会することになる。

■フィゲラス (サルバドール・ダリ)とモンセラット

バルセルナから少し郊外にでて、日帰りトリップをしようと思った。電車でいけるフィゲラスという街には、ダリの美術館がある。サルバドール・ダリは、私が好きな画家の一人だ。ひと目見ただけで、ダリの作品と分かるほどに独特な絵を書く。美術館は遊び心に満ちていて、とても楽しむことができた。

その翌日、宿の同じ部屋の日本人仲間が、「モンセラットがいいよ!」とおすすめしてくれたので、行ってみることにする。奇石群とも呼ばれる不思議な形をした山の中に、修道院がある。パワースポットとも言われているらしい。ロープウェイで山の中腹についた時、人間の世界から隔離された神の領域に足を踏みいれたと感じた。空はどこまでも青く、立派な建物がある。聖地なのだ。山の中をハイキングすることができ、それもまた素晴らしい場所だ。

夜の公園を歩きながら、エルガーの「愛の挨拶」が頭に流れてきた。バルセロナを旅立つときだ。

■マドリッド到着

夜行バスでバルセロナからマドリッドへ向かった。早朝にバスターミナルに到着、マドリッドは雨が降っている。おまけに寒い。まだ夜明けは遠く、薄暗い。雨が降っていて、寒くて、荷物が多い、この3つが揃うと私の気分は落ち込む。そして大都会ということもまた、その気分に拍車をかけるのだろう。早朝で人一人歩いてはいないけれど、ビルや建物が密集した街を歩いていると寂しさは余計に募る。マドリッドの第一印象は、残念ながら『最悪』という気分だ(たまたまだけれど)。この街のことを思い出すとき、いつも真っ先に到着したこの冬の雨の朝を思い出してしまう。冷たい雨の中、とにかく宿を探し、ユースホステルにチェックインすることができた。

■セゴビア 

マドリッドに宿を確保して、この憂鬱な気分から抜け出したいと思った。セゴビアという街が近郊にあって、電車で日帰りでいけるという。

世界遺産セゴビア。中世の面影を残す味わい深い街。到着すると、雨が上がっていて、気分も少し晴れてきた。巨大なローマ式水道橋に驚く。セゴビア大聖堂も美しい。天に突き刺さる尖塔は、中世の人々にとって神を想像し信じる光景になったのだろう。名物料理である子豚の丸焼きを食べる。

■古都トレド

マドリッドの憂鬱から郊外へ。古都トレドに到着。古城をホテルにした宿「サンセルバンド」。ここにはぜひ泊まってみたいと思った。入り口に、古い鎧が飾られていて、とても趣があった。小さいリュックひとつで長期バックパッカーしているという日本人女性の旅人に出会った。私の旅人生の中で、あれだけ荷物がすくない人に出会ったことがない。ミニマリストの究極形だ。見習いたい。その宿には、モロッコ人らしき旅人とも出逢って、とてもニコニコしていたけど、英語がまったく通じず、何を話してもニコニコしながら「Si」と言っていた。スペイン語?妙に印象深い出会いであった。

宿には、小学生らしき集団がいて、中国人か?と聞かれる。いや、日本人だよと答える。漢字を書けみたいなことをスペイン語で言われて、紙に名前を漢字で書いてやると、僕も僕もと押し寄せてきた。

トレドを散策していると、アムステルダムでユースホステルの同部屋だった日本人旅人にたまたま遭遇した。これも旅の面白さ。画家エル・グレゴが愛した街として知られている。古い時代の記憶を残してる景観は、とても美しくて素晴らしい。小高い丘の上、城壁に囲まれていて、門をくぐって中に入る。狭い石畳の道。迷路のようで、この道を曲がるとどこに出るんだろう?とワクワクする。トレドは、イベリア半島の旅で最も美しかったハイライトの1つだ。

■コルドバ

アンダルシア地方へ向かう。イベリア半島の旅は、バス移動が中心だ。アンダルシア地方に入ると、景色の印象が変わった。なだからな大地、風車、広がる空。それは、バルセロナやマドリッドの都会とはちがう、地方へ来たという感じだった。バスの窓から眺める景色は、心を和やかにする。旅のリズムが整ってきたのかもしれない。

この街の中心には、メスキータと呼ばれるモスクがある。ヨーロッパ世界であるはずのイベリア半島に感じるイスラムの匂い。世界史の一時期にイスラム王朝が征服しにやってきた。それはのちに、レコンキスタ(国土回復運動)によってヨーロッパ人たちは奪還することになる。それは世界史のお話。

メスキータの中を見学する。ところどころにイスラム文化の特色であるアーチの形やデザインを見つけることができる。一方で、キリスト教の教会のような内装も感じる。キリスト教世界とイスラム教世界が、気団のように行ったり来たりしたこの街では、不思議で独特な文化が形作られている。ガイドブックでおなじみの、花の小径から尖塔を垣間見た。ここは花の街なのだ。ユースホステルは、アルベルジェ・イントゥルホーベン というところでなかなかよかった。

その頃は、スマホなどまだない時代。日本にいる友人とはたまにネットカフェを使って、連絡をとっていた。ミクシィの時代だ。卒業旅行に一緒にいくメンバーから、「彼氏と別れたので行けない」とメッセージが入っていた。「ochi tu ke ochi tuke ke」と、日本語非対応のパソコンから、ローマ字打ちアルファベットで返事しておく。

■グラナダ

旅は南へ向かい、地中海を目指している。グラナダに到着した。

グラナダのハイライトは、なんといっても「アルハンブラ宮殿」。バスで街に近づいた時、丘の上にそびえ立つ宮殿が見えた。

宿のユースホステルでご飯を食べていると、バルセロナで会った旅女子と再会して驚く。違う街で出会うことが旅の面白み。金欠になっていると言っていて、紙に漢字を書いて、道端で売るという面白い話をしていた。自分も食費を浮かすことが習慣になっていて、スーパーでパンとハムとチーズを買って、ユースホステルの食堂で食べることを続けていた。彼女とは帰国後に西宮で再会し、そのことをよく覚えていた。

■ジブラルタル

イベリア半島をリスボンに向かって、なんとなく流れている中で、ここは寄りたいと強く思った場所は、ジブラルタルだ。ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸が急接近するジブラルタル海峡。それは、地中海から大西洋への出入り口。人や船やモノが行き交っただろう世界史の要衝だ。地図好きな私は、この旅の中で、ジブラルタルをこの目で見てみたいと思ったのだ。

イベリア半島の地でありながら、ここは今も英領、つまりイギリスだ。香港やシンガポールのように、大英帝国が世界の海を支配するにあたって、重要な寄港地だったにちがいない。到着すると、高い岩山が連なっていて、岩の塊のような島であることが分かる。

英領になるので、国境を超えることになる。検問所のようなところで、パスポートを見せた。通過は簡単だった。まっすぐ伸びるコンクリート道路をただ歩いていく。ユニオンジャックの国旗がたなびき、看板が英語になり、お店の表示価格がユーロではなく英ポンドになった。国境を超えたのだ。

観光めぐりの場所としても意外と面白かった。セント・マイケル洞窟という鍾乳洞がここにはある。バルセロナの彼女は、洞窟好きと確か言っていたことを思い出した。ライトアップされた洞窟内は美しかった。ターリクの山をハイキングする。野生の猿が多く見える。狭いこの地そのものが山のようで、周囲の水深は相当深くなっているのだろうと想像する。イルカ見学ツアーにも参加してみる。ボートに乗って海風を感じる。そして、せっかくの英国なのでフィッシュ・アンド・チップスを食べた。

■アフリカ大陸へ初上陸!

アルヘシラスという小さな港町に到着した。目の前の地中海の向こうは、もうアフリカ大陸だ。ここからフェリーに乗って、モロッコへ渡る。2時間ほどで到着したのは、玄関口であるタンジェという街だ。

すぐ近くにある旧市街であるメディナを散策する。道はせまく、建物が集まり、迷路のようで、坂のアップダウンを感じる。店先の雰囲気は、イスラムそのものだ。看板はもちろんアラビア語だ。道行く人々も、スペインとはまったく違う感じがした。アフリカの大地、イスラム世界、文明と文明のあいだ。コルドバなどは、ヨーロッパ世界の土台にイスラム色が入ってきたという感じだったけれど、逆にタンジェでは、そのヨーロッパ文明という土台すらほとんど感じなかった。土台が異なるのだ。

正直このとき、アフリカ大陸というイメージにビビりまくっている自分がいた。アフリカ大陸を旅するなんて大丈夫なのか。個人的には、それはいまだ暗黒大陸だ。それなりに海外を旅していたけれど、当時の自分の旅レベルでは、モロッコですら非常に怖い場所だった。アルヘシラスに宿をとり、このタンジェは、数時間ほど散歩して、スペインへ逃げ帰ろうというふわふわした態度だった。モノを食べるなんてさすがにやめておこう。そんなマイナスなイメージがあったのは、数週間前、バルセロナの宿でモロッコ帰りの旅人から聴いた話があったからだろう。彼が、腹を壊して、苦労しながらバルセロナに戻ってきたと言っていたことが、私の中で、強烈に印象が残っていたのだ。

それでもスペインへ戻る前に、せっかくなのでということで、ちょっとごきれいなホテルのラウンジで(やっぱりビビってる)、モロッコご当地のミントティーを飲んだ。甘くほんのりとしていて、異国のエキゾチックさを感じた。こういうドキドキ感は、はじめて海外旅行をした韓国旅行のときの感覚に似ているような気がする。今思えば、もっとモロッコを楽しんでもよかったかななんて思う。旅はいつもそんなことの繰り返しだ。

■国境を超える

アルヘシラスからバスで、セビーリャへ移動する。セビーリャについては、一泊するか、日帰り立ち寄りにするか、迷ったけれど、旅の残りの日程が少なくなっており、ワンタッチして通過することにした。しばらく田舎を回っていたこともあり、セビーリャは大都会という印象が強い。大聖堂を見学し、街の中を流れるグアダルキビル川の川沿いを散歩し、美しい橋を見た。次のバスが出発するまでの少し間、街を散策した。

セビーリャのバスターミナルから、ポルトガルへ向かうバスに乗る。いよいよ、国境を超える。グアディアナ川を渡り、道路沿いの看板は、ここからポルトガルと示している。もちろん、パスポートコントロールもない。バスの窓から周囲を見ていて、景色に大きな変化を感じない。スペインとポルトガルを分けている要因って一体なんだろう。すみっこに追いやられているようなポルトガルの領土をみて、イベリア半島の地図をみながら、そんな疑問を感じた。それはこの旅のささやかな主題の1つだ。それでも、歴史的に見れば、スペインとポルトガルがまったく異なる道を歩みながら、世界史のなかで役割を演じている。日本とつながる時代もある。地図や歴史は不思議なものだ。

バスは、ファーロという街に到着した。ポルトガルの街だ。ここは通過地点で、すぐに鉄道に乗り換える。向こう先は、さらに西にあるラーゴス。ここでユースホステルを探して、一泊する。

■果ての岬へ

リスボンへと向かう途中に、ラーゴスで一泊した理由は、行きたい場所があるから。「サグレスの岬」。旅文学の金字塔「深夜特急」を読んで旅立った人は多い。自分もその一人だ。深夜特急がたどり着いた場所。ユーラシア大陸の西の果て。沢木耕太郎さんが、長い長い旅の終わりを感じた場所。それが、サグレスだ。

ラーゴスで目覚めると、バスに乗り込み、さっそくサグレスへと向かった。そのエリアは、ほとんど家もなく、ただの田舎のようで、人も少なかったが、1つの観光地であることは確かだった。案内も出ている。

岬の果てまで歩く。天気は晴れ渡っていて、青空が広がっていた。それがありがたかった。海が見えた。大西洋が広がっていた。ユーラシア大陸の果て。極東の日本から、はるばるここまでやってきたのだ。そんな感慨があった。この海をどこまでもいけば、たぶん日本のどこかにつながっている。果てしない旅だけれど、この海岸線を洗う水は、いつか日本の海岸線を洗っていたのかもしれない。世界はつながっている。

「ここに地果て、海始まる」。そんな詩を聞いたことがある。あれはサグレス岬のことだったか、ロカ岬のことだったか。どちらでもいい。たしかに、地はここで終わっている。そして、次の世界が広がる。大航海時代、ポルトガル人たちは、この海をみて、その向こうへ行こうとしたのだろう。なんという恐れぬ冒険者たち。かれらの旅立ちが、世界を変えた。そして、世界をつなげた。この場所から始まったのだ。

■リスボン 終着の街

サグレスからラーゴスへ戻り、バスに乗り込んだ。いよいよ、リスボンへ向かう。この旅の終わりの街だ。海のようなテージョ河に大きな橋がかかっている。その橋を超えた先に、街が広がっている。リスボン。ポルトガルの首都。古き良き都。

数ヶ月前に「7月24日通りのクリスマス」という映画をたまたま見ていた。物語の舞台は長崎だが、主人公の女性は、リスボンでの暮らしを妄想するラブコメディだ。リスボンと長崎。丘が広がり坂が多く、狭い土地に街が広がり、港があるイメージ。長崎には行ったことがないけれど、長崎のことをふと考えた。「竜馬がゆく」の影響かもしれない。

坂が多い。石畳の道に、市電がことことと走っている。人は多いけれど、どこかのんびりしていて穏やかな雰囲気がある。サン・ジョルジェ城へ登る。テージョ川に沿って、市街地が広がっている。オレンジと白の屋根と家が、美しい。サント・アントニオ教会を訪れる。

市電に乗って、ベレンというエリアへ。川に臨んで、美しい「ベレンの塔」が見える。少し歩くと、「発見のモニュメント」がある。エンリケ航海王子の像が、遠い海の向こうを観ている。

足元に世界地図があって、それぞれの地域の発見年が書かれているようだった。日本もある。1541とある。戦国時代の頃だ。そうやって鉄砲が伝わった。この場所と、遠い日本が海でつながっている。リスボンにある博物館に、当時の日本の物品が保管されている。波濤を超えて、ここまでたどり着いたものだ。時間と空間をこえて、つながることに不思議な感じがした。

■ロカ岬

旅の最終日になった。ポルトガル王家の避暑地と呼ばれるシントラへと向かう。丘の上にたつ宮殿が、まるでファンタジー映画の世界だ。

シントラから、バスでさらに西へ。旅の終着点となるロカ岬へ。ポツリと立っている石碑にはこうある。

AQUI…ONDE A TERRA SE ACABA E OMAR COMECA(ここに地果て、海始まる)

ポルトガルの詩人カモンイスという人が書いたものだ。

岬からは大西洋が広がっていた。数日前に訪れたサグレス岬とも少しかぶった。サグレスよりも、観光客がこちらのほうが多い。リスボンからのアクセスがいいからだろう。それでも、旅の終着にはふさわしい。長い旅を終えて、帰国がみえてきた。このロカ岬で、イベリア半島をめぐる旅は終わる。

■旅のあとがき

2度目のヨーロッパは、バックパックを背負って、イベリア半島を動き回った。3週間の旅。当時は、スマホもなく、インターネットもなくて、街中にあるネットカフェでミクシィをしていた記憶がある。今回の旅行記は、2023年に書き上げたものだ。旅をしたのが2007年なので、16年間眠っていたものを掘り起こした。卒業前に旅して、すぐ社会人になったので、旅行記をまったくかけてなかったからだ。16年前の記憶は薄いけれど、強烈に残っているものがある。長い年月の間、ワインのように成熟されていたのだろう。そう信じたい。旅行中は、ノートに毎日記録を書いていた。かなり細かく書いていた記憶はあるが、残念ながらそのノートはすでになく、見ることができなかった。しかし、グーグル写真の中には、すべての写真が残っていて、ありがたいことに、インターネットで検索すれば、さまざまな情報や地図が出てくる。泊まったユースホステルの公式サイトなんかも出てくる。おぼろげな記憶と、ネット情報が自分の中で結びつき、記憶が蘇ってくる。当時は、「地球の歩き方」を片手に歩いていた。いま、手元に最新の「地球の歩き方」がある。この本も、旅行記を書き起こすにあたって、とても役に立った。

さまざまなことがあった、イベリア半島の旅。どれもすばらしいけれど、サグレスからみた大西洋が、もっとも印象に残っている。それは卒業を前にして、長く長く歩いてきた旅路、人生という旅路の果てにたどり着いたという感慨がある。そこにいくことで見えるものがある。わざわざ手間ひまかけてたどりつくことに意味があるように思える。果の岬から眺めたあの大海が、いまも記憶のなかで青く広がっている。

<完>