2003ヨーロッパ

2003年、ヨーロッパの旅

旅程:2003年9月5日〜25日

【Contiki】コンチキと読む。「Con」は「大陸」を意味するコンチネンタルのこと。「tiki」はマオリ族の言葉で「仲間」のことを指す。かつてニュージーランドの若者たちが、仲間を集め、あいのりワゴンでヨーロッパ大陸を旅したことが、コンチキツアーの起源であるらしい。

■イントロ

かつてネット世界ではテキストサイトの黄金時代があった。「侍魂」や「ろじっくぱらだいす」といった超有名サイトがスターになり、自分もその世界にどっぷり浸かっていた。自分もサイトを立ち上げて、似たような小さな個人サイトと、細々とつながっていたりしていた。その中で、葉月さんという方の個人サイトに、ヨーロッパを旅したときのことが書かれていた。「コンチキ・ツアー」というものに参加したという。「コンチキ」ってなんだろうと思った。それが、私と「コンチキ」との出会いだった。

これは、私のコンチキ・ツアー17日間の物語である。

ときは2003年の春。1年前に大学を中退していた私は、別の大学に再受験して合格し、新しい環境で新たな生活を始めていた。長い受験時代から開放された私は、早くも旅立ちのことを考えていた。

ヨーロッパに行ってみたい。しかしヨーロッパは遠い。飛行機でも片道で半日はかかる。できるだけ長く滞在したい。それなら時期は大学の夏休みで、ピークを避けるならば9月だ。ヨーロッパ大陸には、たくさんの国々が詰め込まれているから、できるだけ多く、効率よく回りたい。

そんなとき、思い出した。葉月さんが書いていた「コンチキツアー」のことを。

「Contiki Tour」とは、オーストラリアの会社が催している現地発着バスツアーのことである。世界各地から参加者が集まり、一台のバスに乗って、修学旅行のようなノリで各地を旅するツアーだ。その特徴は、参加資格に「年齢制限」があることで、18歳から35歳という若い世代しか参加できない。しかもツアー中は、もちろんすべて英語だ。

これは面白そうだ。テレビ番組「あいのり」みたいだ。ついでに生の英語力も鍛えられる。コンチキツアーには、さまざまなコースがあり、その中で選んだのはこれだ。

「London to Athen 17days」

英国ロンドンを出発し、ヨーロッパ大陸を斜めに横切って、8カ国をめぐる。ゴールはギリシャのアテネというルートである。

さすがに今回ばかりは事前にキッチリ英語を勉強しないと!と意気込んでいたものの、新生活の忙しい日々と遊びに追われ、結局、英会話の準備もままならないまま、旅立ちを迎えることになってしまったのであった。

■旅立ち

2003年9月5日という日付をよく覚えている。

長いフライトを終えて、ロンドンのヒースロー空港に降り立ったとき、妙に暗い雰囲気を感じ取った。英国といえば、何か栄華でお洒落なイメージがあったが、そうでもないのだろうか。明治時代に、英国に留学していた夏目漱石は、英国で憂鬱になったというエピソードがあったような気がする。

とりあえず通貨ポンドに両替し、空港から市内へ出る。空港へのお迎えはないので、自力で市内まで行く必要がある。ガイドブックには、エアポートバスが出ている、と書いてあるが、バス乗り場が見つけられない。ウロウロしていると、英国紳士が話しかけてきた。「バス乗り場が分からない」と伝えると、「OK!こっちだ!」という。英国紳士に感謝し、彼の後を追う。階段を登り、エレベータに乗って、扉が開くと、そこは薄暗い駐車場だった。

・・・この展開はヤバい。逃げよう。時差で頭もぼんやりしていたが、自己防衛本能が働き、なんとか逃げ帰った。英国って怖いな。改めてバスを見つけることができ、なんとかホテルへたどり着くことができた。

■ロンドンを歩く

ロンドンでは3泊の予定だ。とりあえず、ロンドン的な場所を回ることにした。ホテルから最寄の地下鉄の駅に入ろうとしたら、入り口に『ストライキ中』と書かれていた。電車は止まっているらしい。仕方がないので歩く。

バッキンガム宮殿、ビックベン、タワーブリッジ。聞いたことのある名所を巡る。

歩きながら、帰りの航空便のリコンフォーム(予約再確認)のことを思い出した。今回の大韓航空は必要とのことで、これを忘れると、勝手に予約が取り消されることもあるという。なんとも理不尽なシステムである。公衆電話から、大韓航空のロンドンオフィスにTEL。以下、英語でやりとり。

「リコンフォームをしたいんですが…」

「お帰りの日付とお名前をどうぞ」(マニュアル通りだ!大丈夫!)

「少々お待ちください」 (少々待つ)

「予約は入っていませんが…」(想定外)

電話の向こうからオペレーターがいろいろ話すが、焦りで、もう何も聞き取れない。か細い英語力では対処できなくなったので、日本語オペレーターに代わってもらった。

「やっぱり予約が入っていませんね」

日本、帰れないじゃん。どうしよう。

(後日談:システムトラブル最中だったらしく、予約はちゃんと入っていた。しかし焦る)

■ソールズベリの夕暮れ

ロンドンから「ストーンヘンジ」へ日帰りで行ってみる。

ウォータールー駅から西へ。都市部を出て、広がった田園風景に心奪われた。日本の農村にある寂しさとは違い、のどかな癒しをそこに感じた。

ソールズベリという小さな街に到着した。そこから20分ほどバスに乗り、田園の道をひたすら進み、放牧の景色が飽きるほど続いた頃、「お?」と違和感を漂わせた「石の群れ」が目に飛び込んできた。ここがストーンヘンジだ。

巨石群を囲むように見学コースがあって、直に石に触ることはできないが、ある程度近づいて見ることはできる。とにかく意味不明な石の配置である。その意味不明さが妙に心地よく、不思議なパワーを感じ、ミステリックな気分になる。これを築いた古代人たちと会話をしているような不思議な気持ちになってくる。想像を飛躍させれば、宇宙人たちと話しているような気分だ。

バスでソールズベリに引き返し、この街を少し歩いてみた。

木々や小川の自然が、コンパクトな街とうまく調和していて、散歩するだけで気分が優しくなってくる。小さな街だからか、それとも日没前という時間のせいなのか、道行く人影はほとんどない。それもまた大都市ロンドンとは対照的で、安らぎを感じる。

街は平地で、周囲に丘陵もなく、家々の屋根も一定の高さに揃っているが、この街で一箇所だけ、この均衡的な景観を突き破っている場所がある。それがソールズベリ大聖堂だ。

天に向かって突き出た立派な尖塔が見える。この大聖堂は、人々の暮らしとともに、長い長い歴史を歩んできたのだろう。街の人々にとっても象徴的な存在に違いない。大聖堂が持つ歴史の深さや威厳さに、ただ心を奪われ、尖塔をじーっと見上げながらしばらく佇んでしまった。夕暮れどき、独特の雰囲気がこれに重なって、心に深く刻まれた。

私たち日本人の感覚では、掴みづらいかもしれない宗教的な威厳さのようなもの。中世のヨーロッパでは、キリスト教という存在が本当にとても大きかったのだろうと考える。日本人である自分でも、この大聖堂を前にしてみれば、ちっぽけな存在な自分に気付かされ、キリスト教の権威にひれ伏してしまいそうな感覚だった。

■花の都パリ

「パリ」。そのたった2文字の中に、どこまでも深い優雅さが含まれているような気がする。「パリへ行く」というただそれだけでもう酔わされてしまうような感覚。フランス共和国の首都、花の都パリ。世界中のあらゆる旅行者を魅了する。

パリを歩けば、どこからでも見えるのが「エッフェル塔」だ。造られた当時、「そんな塔は不要だ」と批判されたのは有名な話である。だが、今ではパリを象徴する存在となっている。時間の流れは、何でも飲み込んでいくのかもしれない。展望フロアまで上るエレベータで、フランスの小学生たちの団体と一緒になった。遠足だろうか。「ぼんじゅーる」と言ってみたら、「bonjuor!!」と美しい発音で返ってきた。展望フロアから、街を見渡すことができる。強風が吹きつけていて、かなり肌寒かったが、景色は素晴らしかった。

「凱旋門」へ。ナポレオンが活躍した栄光の時代に思いを馳せる。門の重厚さと荘厳さに圧倒されてしまう。近くでよく見てみると、銃弾跡がたくさん残っていることに気づく。子供のころ読んだ歴史マンガで、明治時代にパリを訪れた岩倉具視が、同じように銃痕について語るシーンを思い出した。歴史的建造物を見ると、過去と対話しているような不思議な感覚になる。

凱旋門の広場からまっすぐ伸びている「シャンゼリゼ通り」。世界一有名なストリートかもしれない。その通りを、ツアー仲間のジョンと二人で歩いている。彼は20代後半ぐらいのオーストラリア人で、通信系の会社に勤めているという。「大学では何を勉強しているの?」とか「将来は何になるんだい?」という話になった。自分は大学1年生で、将来の仕事のことなど深く考えたことがなく、返答に詰まった。ジョンからすると、「大学で勉強したこと=将来の仕事」と直結するものであるらしい。それが彼らの価値観のようであった。だから、返答に詰まる私は、ジョンにとっては少し不可解なのだろう。

一般的に日本の大学1年生というと、将来のことを具体的にイメージせず、とりあえず大学に入ったという人たちは多数派のように思える。その良し悪しは単純に言い切れないにしても、それが日本的な習慣であって、その社会の中で私はずっと生きてきたことも事実だ。こうして異文化の人と話すことを通じて、そのギャップを感じることも多く、そこから学ぶこともまた多いのだ。

ルーブル美術館へ。空間は広大で、展示物も無限にあるように思える。これを全てじっくり見て回ってたら1週間あっても足りないかもしれない。ジョンと「とりあえずモナ・リザだけ見ておこう」と確認し、かの有名な「モナ・リザ」を観ることができた。私が訪れたときは撮影OKであった。かつては撮影禁止だったらしく、警備員と盗撮の闘いが繰り広げられたらしいという話も聞いた。

9月のパリの夜は冷え込む。ムーラン・ルージュの前にあったカフェで、飲んだホット・ショコラ。甘さと濃さで、身体は温まる。あれは、私の中で世界一のホット・ショコラになった。

■スイスの湖畔にて

スイス連邦の都市ルツェルン。湖畔に広がる町並みには、いまだに中世の時間が流れていた。湖の色との家々の調和が何とも美しく、一枚の絵画作品であるようだった。

この旅の中でのささやかな自分の課題の1つは、訪れたすべての国から自宅宛にポストカードを送ることだった。郵便局でポストカードを書いていたら、横を通りかかったスイス人が、「宛名の上の部分に、『A』と書いておくんだ。そうすると速く届くよ!」と教えてくれた。スイス人はとても親切だ。それ以降、Aを書くことが習慣となった。

今夜の宿は、監獄ホテル。もともと監獄として使われていた建物である。部屋の雰囲気もドアの形も牢屋そのものだ。とても面白い。

ルツェルンの美しい風景と優しい人々、今でも目を閉じれば浮かんでくる。「この街に住んでみたいなぁ…」。カナダ人のアンにそう呟いてみた。

■リヒテンシュタイン公国

スイスを発って、しばらくバスが走ると、リヒテンシュタインという国に入った。

世界で6番目に小さな国。世界地図を眺めても、なかなか見つからない。外交も国防も、お隣のスイス連邦に全部お任せというのんびりした国だ。そこで暮らす人々やゆったりと流れる時間に触れていると、タイムマシーンに乗って中世ヨーロッパに来てしまったような感じがして、なんだか愛おしさを憶える。時代錯誤のような気もするが、事実ここには公爵がいて、彼がこの公国を治めているという。

パスポートに押した入国査証は、「観光記念スタンプ」といった感じもある。

■ビールの街ミュンヘン

夕方すぎ、ツアーバスはドイツに入った。南部の都市ミュンヘン。Munich。英語読みだとミューニッヒになる。ドイツといえば、ビール!ビール!ビール!!

ミュンヘンには超ビッグなビアホールがある。大きさでいうと、学校の体育館のようなサイズだ。そこに木製の長テーブルと長イスがびっちりと並び、音楽バンドがカントリーミュージックを奏でている。ホール内はたくさんのドイツ人たちと観光客で混み合っていた。

同席したのは、ツアーメイトであるニュージーランド人デイブとその奥さんニック、それとオーストラリア人のナイスガイのビルとその彼女ケリー。ビールを5つ頼むと、ピッチャーサイズのビールが5つ出てきた。これがドイツ・スタンダート、半端ないって。夕飯抜きで空きっ腹の酒宴は始まる。つまみはプレッツェルのみ。もうどうにでもなれ。

「もう一杯飲むべ?」ビルが誘ってくる。負けてられません。

ふとバンド演奏から嬉しい曲が届いた。

♪take me home country roads~

カントリーロードだ!なんか本場感があって嬉しい(本場はどこなのだろう)。場内でも大合唱が起こる。あつい!あついぞ!

隣席のドイツ人老夫婦と語る。ドイツ人おじいちゃんが「どっからきたんだい?」と私に尋ねてくる。私が答える前に、酔っ払っているデイブが横からすかさず「メキシコー!!」と答える。私はメキシコ人となり、おじいちゃんは何度も何度も「メーキシコー!!」と叫んだ。あつい!あついよ!この陽気さがドイツ・クオリティだ。

そのあたりからの記憶は曖昧。ピッチャーサイズのジョッキを何杯も飲み、帰りのバスの中で踊り狂った私は、これ以降「飲みキャラ」が定着することになった。また一つ自分の殻を破って、仲間たちとの距離が近づいた。今日の結論は、酒って素晴らしい。

■その場所で歴史を知るということ

ドイツを出て南下し、オーストリアへ。バスは、ダハウ収容所に到着。第二次大戦下、ナチスの収容所の跡地である。

みんなでぞろぞろとバスを降りるとき、ツアーメイトの一人の女性が泣き出して、ルー(マネージャー)と何かを話していたのが目に入った。その会話はよく聞こえなかったし、遠目から見ていただけなので、何があったのかはよく分からない。ただどうやら訪れたくないというようで、彼女は結局バスが止めてある駐車場に1人で残った。

入り口から中に入った。今はもう閑静な場所となっている。普段から神とか霊とかそういった類のものを意識することはない。ただ、ここにいると、何か感じるものがある。塀の針金、建物の柱、壁、土、石ころ・・・こういったものを見ていると、何かを感じる。その何かが、言葉にできない。死者の霊みたいなものが、語りかけてくるような、そんな感覚に見舞われる。

歴史的事実は、なるべくいろんな面から見たいと考えるようにしている。一方的な見方や、押し付けに染まらないように注意するようにしている。たとえば、ここでさえ、政治的なイデオロギーがどっかしらに潜んでいるんじゃないかとか、そういった余計な考えも浮かんでしまう。だが、自分の素直な感覚で、ここが重く、悲しく、苦しい、深刻な場所と捉えることができる。そして、今の自分の周りの平和にだけは感謝すべきなんだ。

バスに戻った。車内は何かいつもと違う静かな空気だった。みんなそれぞれ思ったことがあるのだろう。みんな楽しいことが大好きで、酒を飲めば大騒ぎするし、ディスコでは踊り狂うし、そんな愉快な仲間たちだけど、みんな大人なのである。

このバスの中には、カナダ人がいる。オーストラリア人もいる。ニュージーランド人がいて、メキシコ人、アメリカ人、そして日本人がいる。それぞれ国は違くとも、思うことが一つのところに行き着いてる気がした。もしそうならば、世界平和は遠くても、このバスの中にも小さな希望はある。そう思った。

■オーストリア

オーストリア・チロル地方。アルプスの山岳地帯に位置する避暑地。小洒落たペンションのような建物が今夜の宿だ。このツアー中ずっと、単身参加の私は、同じ単身参加のジョンとルームシェアをしている。部屋に入ると、ダブルベッド。おいおい、男同士でダブルベッドは無理だぜマネージャー!と、一瞬焦る。ジョンが、隣の部屋にいるグレッグ兄弟のところへ様子を見に行くと、彼らの部屋にはベットが3つあるとのことで、ジョンはそっちへ移動することになった。無事解決。

ペンションにはバーがあって、そこで宴は始まる。

ビールを飲み、カクテルを飲み、昨夜ドイツのビアホールで一緒に飲んで以来、私を同志と認めたビルが、「モトーキー!飲むぞー!」と早速絡んでくる。ワンショットグラスでの勝負が始まり、日本VSオーストラリアの代表戦は、日本側の敗北で終わり(すいません)、ディスコ!ディスコ!と今度はそっちに連れていかれて、みなで踊り狂い、酒を飲んではまた踊り、何気に人生初だったディスコは、みんな慣れてるなぁ上手いなぁと思いながら、見様見真似でリズムに乗ってるような乗ってないようなアヤフヤなディスコでまぁいいやと踊っては酒を飲みまた踊り、ビルは「モトーキー、飲むぞー!!」と二回戦を仕掛けてきた。そんな最高の夜。オーストリアの素晴らしい夜。コンチキは最高だ。

■川下り、ラフティング

ツアー序盤でオプショナルツアーを申し込むとき、「ウォーター・ラフティング」って面白そうだとオプショナルに加えていた。ラフティングが実際どういうものなのか、私はどうやらよく分かってなかったようである。「川をボートで下る」程度のイメージだったので、まぁカヌーのように、のんびりと流されながら景色を楽しむ、そんな穏やかな川下りを想像していた。そして、それは大きな間違いであった。真逆だった。

ウォーターラフティングは、全身がズブ濡れになるほどの激しいスポーツだ。当然メガネのまま臨む人間はいない。メガネをかけていた私は、「メガネは外すけど、大丈夫?」とインストラクターに聞かれて初めて、自分の想定と異なることを知った。マネージャーのルーは、 「水はとっても冷たいわねー。サイアクよ。」と言ったとき、「いやいや水に濡れるモノじゃないでしょ」と本気で思っていた。無論、タオルや着替えなど一切用意してない。

さて、後戻りはできないので覚悟を決めて、いざ行かん。全身タイツのようなウェットスーツとライフジャケットを着込み、ヘルメットをつけ、防備は万全。しかし、防寒という面では貧弱で、寒い。

参加者は全部で20数名、ボートが3台用意されて、私のボートには8人ほどが乗った。ボートごとにインストラクターが1人乗り、彼の指示でボートを漕いでいく。いろいろな合図の掛け声があって、それに従って、オールをかき回したり、止めたり、オールを立てて向きを変えたりする。もちろん英語で全て説明されたが、当然私は説明が理解できていないので、周りの人の動作を真似ながらワンテンポ遅れる。

ボートは渓流を下っていく。始めは穏やかな流れで、インストラクターが「漕げー!!」と合図をすると、みんなで必死にオールをかき回し、「ストーップ!!」と言ったら、その動作を止める。そんなことを繰り返したりしながら、ボートはやがて速い流れに乗ってグングン下っていく。周りには、僕らのツアーメイトの他のボート2つが同じことをしている。たまに追い抜いたり抜かれたりしながら、ときにボートが近づくとオールを使って相手のボートに水を掛け合いっこしたり。みんながみんな子供のようなハシャギっぷり。隣にいたグレッグは「How old are you??!(お前らはいくつだ?!)」と叫んだ。

そして、流れが緩やかになってくると、水の中に飛び込む者あり、泳ぐ者あり、流されていく者あり、しまいにはボートに乗ってる者を水の中に落とす者ありのハチャメチャっぷり。ついに「モトーキー!!カモーン!!」と巻き込まれた(やっぱり)。水の中は凍らんばかりの極寒である。ライフジャケットがあるから身体は浮くので、溺れはしないが、とにかく水が冷たくて冷たくて冷たくてしょうがない。

タースケテクレー!と叫び、ジェイミーが差し出したオールに捕まって救助された。私の後ろを掴んでつき落としたのが誰だったかがいまだに思い出せない。そんなカンジでかなりエキサイティングなウォーターラフティングは、川をくだること30分ばかしでゴールに到着した。とても楽しかったし、とても寒かった。そしてみんな若かった。なんか風邪ひきそうだ。

■水の都ヴェネチア

Venice。ある人はベニスと呼び、ある人はヴェネチアと呼ぶ。個人的には「ヴェネチア」という語感が好きだ。イタリア北部にあるこの都市は、アドリア海の最深部に位置し、かつてはヴェネチア共和国として欧州随一の栄華を誇った。旧市街は、血管のように縦横無尽に運河が張り巡らされた「水の都」である。主要な交通手段は船で、街の中に入り組んだ大小の運河がヴェネチア人たちの生活を支えている。

この街は、歩くだけで面白い。まるで迷路のように、複雑怪奇に小道と小道がつながっている。車が走れるような幅の道はなく、どの道も裏路地のようだ。迷い込んでしまっている自分がなんだか面白い。ところどころに小さな案内板がある。これがなければ、とてもじゃないけれど目的地にたどり着けない。不思議な仮面を売っているお店が多い気がした。

オプショナルツアーで「ゴンドラ」に乗る。水面から見えるヴェネチアの街もまた美しい。ゆったりと流れながら、メンバーたちとワインを空ける。なんとも贅沢な時間である。

ヴェネチアは、イタリアだけでなく、このヨーロッパの旅の中でも最も奥ゆかしく美しい街だったと思う。いつか自分のゴンドラを持ってこの街で暮らせたら素晴らしいな、などと夢見た。

■フィレンチェ

街の中でも小高い丘にあるミケランジェロ広場に立ちつくすと、フィレンツェの街が夕陽でオレンジ色に染まった。

映画「冷静と情熱のあいだ」は、竹野内豊とケリーチャンが三都にわたって繰り広げた恋の物語。その舞台の1つがフィレンチェだ。この映画で登場するのが「恋人たちのドゥオモ」。ここに2人で昇ると幸せになれるという伝説がある。そして、2人はドゥオモのてっぺんのところで、めぐり会うことになる。

ミケランジェロ広場からでも一目で見つけることができる。街全体を眺めれば、家の高さ、建物の色合いに奇抜さもなく、一つの絵画作品のように、まとまっている。ヨーロッパの街の特徴だ。その中でも、ドゥオモはフィレンツェの街のシンボルのように、強く荘厳にそして優しく唯一無二の姿で佇んでいた。

ドゥオモの近く、たまたま入ったジェラート屋の店員のお姉さんが日本人だった。

「こんにちは!」

「あれ?日本の方ですか?」

「うん。」

「留学か何かですか?」

「歌の勉強でこっちに留学してるんだけど、もう2年半になるわ」

外国人たちと一緒にバスで旅をしてきて、13日目。不器用な英語で感情の表現もままならず、妙に日本語が恋しくなっていたタイミングだった。フィレンツェで触れた日本人のあたたかさ。少し元気になた。

「これから、どこ行くのー?」

「次はローマにいくんですよ」

「ローマはすごく良いところよ!楽しんできてね!」

店員のお姉さんは、ジェラートにホイップクリームをサービスしてくれた。人のあたたかさ。こういうめぐり会いが、旅の中で一番好きな瞬間だ。

■そして、ローマへ

『もっとも印象に残った訪問地は?』

『いずこも忘れ難く、良し悪しを決めるのは困難…、ローマです!もちろんローマです。今回の訪問は永遠に忘れ得ぬ想い出となるでしょう』

名作「ローマの休日」のアン王女の言葉より。ローマという名には、誰もが未来永劫の憧れみたいなものがあるんじゃないか。「ローマは1日して成らず」「全ての道はローマに通ず」いくつかの諺もある。古代の地中海世界を制したローマ帝国の首都。この街は、掘れば掘るだけ古代遺跡が出てくるという。

ローマは、永遠の都だ。

フォロ・ロマーノ。古代ローマ都市の政治・宗教の中心であった地帯。数え切れないほどの遺跡群が広がる。観光地としても有名だ。ビルが立ち車が走り人々が暮らすこの街の現代都市としての一面と、こうやって剥き出しに遺跡がある古代都市としての一面の融和が、ローマという街の魅力であり面白いところだと思う。

「真実の口」映画の中で、グレゴリーペッグが手を噛み切られた振りをしてアン王女を驚かせた、あの場所だ(名シーンだ)。観光客をよく見かける。口の中に手を入れて記念撮影をしている(もちろん自分も)。そのせいか、口の部分がだいぶ擦り減ってるように感じた。「真実の口」はもともとはマンホールのフタだったとか。

超巨大建築物「コロッセオ」。古代ローマ人たちにとって、剣闘士同士や剣闘士と猛獣の命をかけた闘技は、最高の娯楽であったという。現代でいうならスポーツ観戦のような感覚だろう。最大で45000人を収容できたというから、3万人の横浜スタジアムと5万人の東京ドームのあいだくらいの規模だ。中に入ってみても、こんな大きなものを造れたなと驚嘆してしまう。ローマ帝国の凄さを感じる。

夕方過ぎ、ローマ観光をひとしきり終えて、そろそろ宿に帰るか…と思い、途中、スーパーで水とお菓子を買い物をしていると、「こんにちは!」日本語で話しかけられた。声の方を向いてみると、少し離れたところに一人の女性が立っている。最初、日本語と分からず、というより自分に話しかけられたとは思わず、キョトンとしていると、「Are you Japanese?」と言う。

少し立ち話をしているうちに、近くのカフェに入って雑談。聞くと、今さっきローマに着いて、明日はクロアチアの方へ発つという。旅先で出会う人々は、みな果敢に旅を続けていく。見習わなくては、そんなことを考えた。

「スペイン広場」に行きたいんだけど1人で行くのは…というので付き合うことにした。「ローマの休日大好きなの!だからここ来てみたかったんだ」。このとき私はまだ映画を見たことがなかった。事前に見ておいたら、この場所も違って見えたのかもしれない。

「意外と狭いんだね」

「人がいっぱいいるせいじゃない?」

「そっかー。明日の朝もう1回来ようかな」

彼女はその足でトレビの泉へ。僕はホテルへ戻る時間だった。僕らはそこで別れた。ほんのわずかな時間ながら、妙に温かく愛おしい時間だった気がする。外国人たちと旅しているのは面白くて貴重な時間だけど、こうしてたまに日本人と出会い、日本語をしゃべると元気をもらえる。ありがとう。

横浜に住んでいるということだった。いつか横浜駅あたりで偶然出くわすんじゃないかなどと思った。連絡先の一つでも交換しておけば、また再会することもできただろうと今更ながら思う。

逆に、人生というストーリーの中でほんの一瞬の出会いだからこそ、温かく愛おしい時間だったと思えたりもする。こういう一瞬は、いつまでも旅の記憶の中で生き続ける。それはそれで有りなのかもしれない。ローマはやはり永遠の都なのかもしれない。

その日の日記の言葉をそのまま抜粋:

「ようやく気付いた、思い出した。誰かの中で存在する自分、誰かの中でしか存在できない自分。強がっても、結局誰かに救われてる自分。旅は出会い。今まで多くの人々、とりわけ日本人に出会った。彼らのおかげで、また自分は存在していけると確認する。」

■アドリア海をわたる

ローマの旅立ちは、別れのとき。何かが終わることで気付かされるのは、見逃していた大切な人たちのこと。この旅はまだアテネまで続いていくけれど、メキシコ人であるターニャたち数人と共に旅するのはローマまでということだった。よく把握していなかったのだが、このバスにはアテネまで行くグループと、ここローマでツアーが終わるグループの二つが乗っていたらしい。

バスの席から窓の外を見る。みんなで別れを惜しんで、抱き合っていた。その光景に触れたとき、はじめて私は、かけがえのない人たちと一緒に旅をしていたことを知った。大切なことをなおざりにしてきたことを知った。

出発するバスの中では、ターニャに恋心(*推測)を抱きつつあったグレッグの寂しげな背中が見える。少し分かる気もする。広い世界から集まってきた人たちが戻っていく場所もまた遠い。バスは南に向かってイタリア半島をゆく。窓越しに大きく手を振った。

午後6時、バスはついにアドリア海に達した。ローマ帝国の主要港であった海港都市ブリンディジ。この港からフェリーに乗って、アドリア海を横断し、バルカン半島の先っぽにあるギリシアへと渡る。

ロンドンから我々を運んできたバスもここまでだ。なのでドライバーのジョンともお別れなのである。バスを降りる直前に、ジョンが車内で最後のあいさつをしていた。英語だったからよく分からなかったけど、気持ちは伝わった。あいさつの内容を言葉で理解したら、泣いてしまうところだったかもしれない。フェリーの前でジョンと写真を撮って、イタリアを後にした。

今夜は、フェリー内で一泊することになる。フェリーはとても大きい。船内を歩くと、キャビンの廊下やデッキが「ふじ丸」になんとなく似ている。1ヶ月前に参加した「洋上セミナー」というボランティアのことをふと思い出した。腕時計の針を進める。ギリシアはイタリアより1時間早い。

いよいよ出航のとき。デッキに出る。そこから眺めるイタリアの夜景。バイバイ、イタリア。肌寒い風、寂しげな波の音、遠く離れていくおぼろげな街の光。遠ざかる景色を眺めていた。

デッキからは、星がはっきりと見える。とても美しくて、とても寂しげだった。洋上セミナーのときの星座観察もこんな感じだった気がする。何となく昔のことを思い出していた。地球の裏側の日本でも同じ星を見ていたのだろう。忘れたはずのものを、ときに強く、ときにうんざりと思い出し、愛しく感じるような、なぜか感傷に浸りたくなる夜だ。

イタリアが見えなくなったとき、暗闇が広がった。星が偶然ひとつ流れたのを見た。ギリシアへ。旅の終わりが少しずつ響き始めている。

■コルフ島到着

フェリーは、夜明けを迎えた。朝もやの中、遠く微かに島影が浮かんだ。コルフ島だ。もうここはギリシアになる。地中海に浮かぶリゾートであり、ハワイやグアムのようだけど、田舎っぽさも残っていて、散歩するだけで何とも気分が良い。

さて、この島でやらなくてはいけないことが1つある。それは、「ミコノス島」という島に行くための航空券を自力で購入することだ。このツアーがアテネで終わったあと、私は「エーゲ海の宝石」と呼ばれるミコノス島に行きたいと思っていた。このコルフ島には、国内便を扱うオリンピック航空のオフィスがある。

「金曜日にミコノス島へ行きたいのでチケットを取りたいのだ!」と力説するも、「ダメね」の一点張り。「なんで?」と何度も聴き、何度も英語で説明されるもよく分からず、10分ほどやりとり。ようやく、相手の言わんとすることは分かってきた。つまり、「ミコノス行きの飛行機はアテネから出ている(=コルフ島から直接は行けない)」と言いたかったらしい。ダメというのは、そういうことか。「アテネまで行くバスは決まっているから、欲しいのはアテネからミコノスへ行くチケットだけだ!」と改めて説明すると、相手もようやく納得。目的のチケットは手に入った。コミュニケーションって難しい。

港で、満面のファインでウェルカムしてくれたのは、ジョージ。今日は1日このボートに乗って、突き抜ける晴天と蒼い海を楽しむ。早速、出航。

ところどころで泳ぐことができるスポットでボートを止め、そのまま海に飛び込む。疲れたら、船に上がって、デッキで照りつける太陽を浴びる。そんな至福な時間ではあったが、実は私はそのとき完全に体調を崩しており、海水浴はやめて、デッキで眠っていた。

ジョージのボートにはキッチンが備え付けられている。パン・ハム・ポテト・チーズや野菜などが載ったプレートで、ランチ。そして、食後に始まったのは、宴だ。国別のチームになって、それぞれの母国の国歌を歌うというものだ。まずはオーストラリア人チーム!そしてキウイことニュージーランド人チーム!チーム英国はマネージャーのルー1人だけ!人が一番多いカナダ人チーム!映画とかでも何となく聴いたことがあったチームUSA!ジョージのボートには、全ての国の国歌のテープがあるのだ。

そして最後は我々日本人。日本人チームは自分含め合計3人。曲はもちろん「君が代」である。途中からだんだん歌詞が分からなくなる。君が代ってこんなに長かったか。3番まであった気がする。

「国」や「国歌」というものを少し真面目に考える機会になった。みんな自分たちの国歌に誇りを持って歌っていた姿が印象的だった。私は途中から歌詞が分からなくなり、少し恥ずかしいような気もした。こんなヨーロッパの果ての小さな島にある海の上で、やっぱり自分が日本人であり、世界的に認知されている国歌は「君が代」だということに気づく。「君が代」には、日本の伝統と歴史が含まれている。

豪州・NZ・英国・カナダ・米国の国歌は、力強くて明快なメロディとリズムだった。それに比べて「君が代」は暗めな曲だ。もっと明るい曲の方がいいのでは、昔は思ったこともあった。でも、他国と比べると、この静けさや厳かさ、「さび」の境地に似た重く力強く心に響く心地は「日本の良さ」でもある。歌詞の一語一語に深く味わいがある。それが日本の「君が代」だ。「日本」という国、そして「日本人」である自分。海外に身を置くことで気付くこと。

■ツアーのたどり着いた場所

アクロポリスは、ギリシアの首都アテネの中心にある小高い丘だ。石造りの白い神殿であったり、極太の柱であったり、一般的に、想像するギリシアのイメージは、ここにある。ところどころで改修工事中のようだった。

古代ギリシアの時代、都市国家アテネでは民主主義の政体が布かれていたという。その政治の中心となった場所がここアクロポリスだ。古代の政治家たちは、この丘の上からアテネの町並みを眺めながら、何を思っていたのだろうと、ぼんやり思いを馳せてみる。建物一つ一つのダイナミックさと、細かな装飾を見つめていると、当時のギリシア文明度の高さに驚嘆する。その頃、極東の日本人の祖先たちは、たぶんマンモスを追いかけていたのだろう。

ロンドンから一台のバスに乗って、共に旅してきた仲間との時間が終わる。ふりかえれば、17日間も同じ時間を過ごしてきた。自分は英語もままならず、コミュニケーションもヘタで、1人で殻に引きこもってしまったり、泣いた夜もあった。それでも、仲間たちは、みんな優しくて温かくて笑うことが大好きで、その中で自分はやっぱり楽しんでいて、巻き戻すことのできない夏の欧州で、彼らとともに旅ができて本当によかった。コンチキツアーは最高だ。

そして解散するとき、みんなで抱き合う。あふれ出しそうな涙は堪える。最後は笑って手を振りたい。

「カナダに来たときは、泊めてあげるからね!」陽気なトレイシー姉さんが言ってくれた。

「モトーキ!オーストラリア来いよ!」酒好きのビルが言ってくれた。

ニュージーランド人デイブは、別れの品にお守りをくれた。幸福のお守り。そして「ニュージーランドで会おう」と約束した。(この約束は一年後、果たされることになる)

重なった足跡がまた離れていく。1人になった自分はアテネの街に溶けていく。

■ミコノス島へ

友人にミコという名の子がいる。お父さんがミコノス島に魅了されて、娘にもその名を冠したという。その話を本人から聞いて、この島に興味を持った。アテネから船で5時間、飛行機なら40分で行けるらしい。航空券は、前にコルフ島で奮闘しながら取ることができた。早朝5:30発の飛行機に乗って、アテネを発った。朝焼けの中、ミコノス島へ到着。

ミコノス島(mykonos)は「エーゲ海の白い宝石」と呼ばれる。島は小さく、人も少ない。唯一の街であるミコノスタウンに到着したとき、私もこの島の美しさに囚われた。真っ白く染まった住宅街。青い空と青い海のコントラストの景観。夢の世界のような美しさがある。

街の中は迷路のようになっている。自分の今いる位置や方向感覚が分からなくなって、それがまた面白い。かつて海賊が侵入してきたときに、迷わせるように、このような造りになっているという。それはもちろん昔の話で、今では島の時間は穏やかに流れていて、そこらじゅうでネコがあくびをしている。ペリカンのペトロ君が、そのあたりを歩いている。島民や観光客みんなから愛されているマスコット的な存在だ。

ミコノスタウンを少し離れて、郊外にある浜辺へ行ってみようと思った。島内はバスもあるらしいが、歩くことにした。時間はたっぷりあるし、この島をよく見ておきたかった。田舎の道を歩きながら、追い越していく車が、「どこ行くんだーい?乗っていくかー??」と陽気に声をかけてくれる。人情味を感じて、なんだか嬉しい。「歩きたいんだ!ありがとう!!」。それは、一度だけでなく、追い抜く車やバイクが次々と声をかけてくれる。

ビーチに到着し、しばらく砂浜で昼寝をしてから、また同じ道を歩いてミコノスタウンへ引き返す。歩いていると、追い越そうとした車が側で止まった。おばあちゃんだ。「どこいくの?」「ミコノスタウン!」「のっていきなさい!」乗せてもらうことにした。話を聞くと、このおばあちゃんは英国人で、昔ミコノス島を旅して以来、この島に惚れ込んでしまったらしく、定年後にやってきて、今は定住しているという。「島にはどれくらい滞在するの?」「いや、今日来たんだけど、もう帰るんだ」「もったいないわねー!もっといればいいのに」

おばあちゃんは少し残念がっていた。私もまだこの島にいたかったけれど、時間は許してくれない。「友人で、ミコノスという名前の子がいるんです」って話をしたら、おばあちゃんはビックリして喜んでいた。

ミコノスタウンに到着。僕は御礼を言って、車が離れていくのを見送った。何とも不思議な時間だった。別々の人生を歩んでいた2人が、車内という小さな空間の中で、わずかな時間ながら、お互いの身の上話を交わす。遠い日本にミコノスという名の子がいるという話を聞いたおばあちゃんにとっても、それは不思議な感覚だったかもしれないと想像する。

いつかこの島で暮らそうと思った。遠い未来、それはいつ叶うことになるのか、わからないけれど、そんな素敵な夢をいつまでも持ち続けたい。

空港へと向かう道の上で、後ろを振り返ると、夕陽があたりをオレンジ色に染めていた。風車は夕暮れに輝いた。

行かなくちゃ、自分の道を。帰らなくちゃ、自分の生活に。

心の隅で寂しさを噛み締めながら、これから再開する日常に少しワクワクした。少しだけ笑顔になって、軽快な足取りになって、私はミコノス島に別れを告げた。

【完】

■あとがき